オーストラリア生まれのマカダミアナッツ

植物学者のウォルター・ヒルが若い助手を心配そうに見つめています。その若者は新種の木の実を食べました。オーストラリアのクイーンズランド南東部の亜熱帯雨林に自生する木の実です。この実には毒がある,とヒルは聞かされています。しかし,しばらくたっても若者はぴんぴんしています。そして,「おいしい」と言います。それでヒルも一粒食べてみます。若者の言うとおりです。やがてヒルは,このマカダミアの苗木を世界各地の友人や植物学者に送るようになりました。

マカデミアナッツ

それから150年ほどたった現在,マカダミアナッツは世界中の人に愛されています。その理由を,クロニカ・ホルティクルトゥラ誌(英語)はこう説明しています。「マカダミアは,独特で繊細な風味,かりっとした食感,深い乳白色のゆえに,世界有数のグルメナッツと評されている」。だからこそマカダミアナッツは,オーストラリア原産の食用作物の第1位を占めているのです。

マカダミアナッツ割るのは大変

常緑樹であるマカダミアは,オーストラリア東岸の亜熱帯地域に生育しています。9種のうち2種から食用のナッツが取れます。クリーム色をしたビー玉サイズのナッツは,繊維質の外皮と茶色の丸い殻に覆われています。

殻はとても頑丈で,割るのが大変です。 アボリジニーは岩を使いました。果樹栽培の先駆者ジョン・ウォルドロンは,金床とハンマーというシンプルな道具を用いて,50年間に約800万個の殻を割りました。機械を使えないでしょうか。初期の機械はナッツを傷つけやすく,満足のいくものではありませんでした。とはいえ,もっと性能の良い機械が開発されました。

繁殖させるのも大変でした。良い木から取った実を植えても,多くの場合,品質の劣る木しか育たなかったのです。接ぎ木もうまくいきませんでした。こうした難題があったため,商業生産は行き詰まります。しかし,ハワイの人たちがこの問題に挑戦し,打開策を見いだします。その結果,ハワイは世界のマカダミアナッツ生産量の90%を占め,マカダミアナッツはハワイアンナッツとも呼ばれるようになりました。

1960年代には,オーストラリアの農家もハワイの方式を参考にして,「重要な商業作物としてマカダミアナッツに取り組むように」なります。結果として,栽培が拡大し,今や世界のマカダミアナッツの約50%がオーストラリアで生産されるまでになっています。ほかにも,アフリカ,アジア,中央アメリカで生産されています。

オーストラリアの農園を見学する

ニュー・サウス・ウェールズ州リズモア近郊のマカダミア農園を見学しました。「数列ごとに違う種類のものを植えて,異種交配を促しています」と農園主のアンドリューさんは言います。オーストラリアに植えられているたくさんのマカダミアの木の約80%は,ハワイで品種改良によって生まれた種類だそうです。とはいえ現在,オーストラリアでは,野生のマカダミアの遺伝子を用いて独自の改良種が生み出されています。

茂った葉の間から,小さなボールのような実が何百個もぶら下がっています。実は6か月ほどで熟し,地面に落ちます。落ちている実の中には穴の開いたものがありました。「ネズミです。ネズミは殻をかじって,8秒で穴を開けてしまうんです。野生のブタもマカダミアナッツが大好きです」とアンドリューさんは説明します。そして,少し先で立ち止まり,土に半分埋まっていた実をけり出し,にやっと笑って「3㌣助かった」と言います。多くの農園では,ドラムとプラスチック製の“指”の付いた収穫機を使って,落ちている実を集めます。その後,外皮を取り除き,実をより分けてから工場に送り,工場で殻を割ってナッツを取り出し,等級ごとに選別して出荷します。

マカダミアナッツおいしくてヘルシー!

見学を終えたわたしたちはナッツを食べ,そのクリーミーでリッチな味わいに思わず舌鼓を打ちます。ところで,マカダミアナッツは健康に良いのでしょうか。このナッツの脂肪は大部分が一価不飽和脂肪酸,いわゆる良い油です。そして,脂肪含有量は「通常72%を超え,油の採れるナッツの中で最大である」と,マカダミアナッツ生産に関する政府の資料は述べています。最近の研究によると,適量を食べれば,悪玉コレステロールと中性脂肪を減らし,高血圧を軽減することができます。

マカダミアナッツ入りのチョコレート,クッキー,高級アイスクリームは人気です。ローストしたものや塩味を付けたものが好きな人もいれば,殻から取り出してそのまま食べる人もいます。いずれにせよ,あなたも,一度食べるとまた食べたくなるに違いありません。

インドネシアの魅力的な“森の人”

その大きな動物は,木の枝にぶら下がってじっとわたしたちを見ていました。巨体の重みで今にも枝が折れそうです。わたしたちは息をのみ,見つめ返しました。相手はあまり関心がないようでしたが,わたしたちはくぎづけです。何しろ,木の上で暮らす動物の中で最も大きいオランウータンが目の前にいるのです。

オランウータン

オランウータンは,ゴリラやチンパンジーと同じ大型類人猿です。この温厚な動物は,ボルネオ島とスマトラ島 ― 東南アジア有数の大きな島々 ― のジャングルでひっそりと暮らしています。名前は,インドネシア語で“森の人”を意味する「オラン フタン」から来ています。

この興味をそそる大きな赤毛の類人猿について,もっと知りたいと思いますか。では,生息地であるボルネオ島の奥地を一緒に訪ねてみましょう。

オランウータンに会いにタンジュン・プティン国立公園へ

オランウータンを見るため,わたしたちはたくさんの動物がいるタンジュン・プティン国立公園を訪れました。その公園の目玉は何と言っても,幾千頭ものオランウータンです。

タンジュン・プティン国立公園

わたしたちはまずクマイの小さな港に行き,そこでクロトクと呼ばれるエンジン付きの木製ボートに乗り込みました。蛇行する川を上流に向かって進み,うっそうとしたジャングルの奥へ奥へと入ってゆきます。川岸にはニッパヤシが茂り,淀んだ暗い水の中には恐ろしいワニが潜んでいます。いろいろな音が辺りに響き渡り,どきどきしてきました。

ボートを降り,虫よけをしっかり塗ってから,密林の中へと歩を進めました。数分もたたないうちに,最初のオランウータンに遭遇しました。冒頭で述べた大きな雄です。ふさふさした赤い毛が午後の光を浴びて,磨いた銅のように輝いて見えます。毛に覆われた体は筋骨隆々で,まさに堂々たる姿でした。

野生の雄のおとなは,身長が約170㌢,体重は雌の2倍の90㌔余りあります。成熟した雄には大きな頬だこができ,顔が円盤のような形になります。また,垂れ下がったのど袋を持っていて,うなり声やほえ声を出すのに使います。「ロング・コール」と呼ばれる,とどろく一連の叫び声を出すこともあります。それは5分ほど続く場合があり,数キロ先まで聞こえます。そうした声を出すのは普通,発情した雌を引き付け,ライバルの雄を追い払うためです。

オランウータンの木の上での生活

ジャングルの中を歩いていると,枝にぶら下がりながら移動するオランウータンたちを見つけました。手足は強くて柔軟で,まるでフックのようです。指は長いですが,親指だけ短く,足の親指は太くてしっかりしています。簡単に枝をつかむことができ,悠々と優雅に動き回り,急いだりすることはあまりなさそうです。

オランウータン

オランウータンはカムフラージュの名人で,影のように木々の間に溶け込みます。地面での移動はゆっくりなので,人間でも簡単に追い越せます。

大型類人猿の中でオランウータンだけが,一生の大半を木の上で過ごします。大抵の日は,夕方になると丈夫な二股の大枝を選び,細い枝や小枝を集めて,心地よいベッドを作ります。地面から20㍍もの高さに作ることもあります。時には,雨をよけるために“屋根”をこしらえます。チンパンジーやゴリラには決して見られない行動です。しかも,すべての作業が終わるまで5分ほどしかかかりません。

オランウータンは木から大好物の果物も得ます。とても記憶力がよく,いつどこで熟した果物が手に入るか知っています。木の葉や芽,樹皮,蜂蜜,昆虫なども食べます。枝を使って,木の幹に開いた穴から蜂蜜や昆虫を取ることもあります。口にする食べ物は,なんと400種類以上に上ります。

さらに歩いていくと,興味深い光景を目にしました。何頭かのオランウータンが山積みのバナナを食べていたのです。人間に育てられてから野生に返されたオランウータンたちで,野生のものほど上手に食べ物を見つけられないので,足りない分を補うための食物を与えられているのです。

オランウータンの家族の暮らし

わたしたちは,かわいい赤ちゃんが母親にしがみついている様子や,やんちゃな子どもたちが地面や木の上ではしゃぎ回っているのも見ました。雌のオランウータンは45年ほど生きます。15歳前後でおとなになると,7年か8年置きに出産します。一生の間に産む子どもの数は,平均すると3頭以下です。ですから,地球上の哺乳類の中でも,極めて繁殖に時間がかかる動物の一つということになります。

母親と赤ちゃんの間には,驚くほど強い絆があります。母親は子どもを8年かそれ以上のあいだ世話し,訓練します。最初の1年間,赤ちゃんはほぼずっと母親にくっついています。その後も,次の赤ちゃんが生まれるまでは,遠くに離れることはありません。若い雌の場合,そばにとどまり,母親がどのように赤ちゃんの世話をするか観察することもあります。

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しかし,若い雄は,次の赤ちゃんが生まれると間もなく,母親から追い払われてしまいます。その後は独りで15平方㌔余りの範囲を移動しながら,ジャングルで生活します。他の雄とは会わないようにし,雌と会うのも交尾する時だけです。

雌は大抵,ずっと狭い範囲の中で一生を過ごします。たまに他の雌と一緒に同じ木で食事をすることもありますが,そういう場合でもほとんど互いに関心を払いません。このようにほぼ単独で暮らすオランウータンは,類人猿の中でもユニークな存在です。わたしたちは“森の人”についてもっと知るために,ある場所を訪ねることにしました。

オランウータン絶滅の危機に瀕している

国立公園の中に,人類学者ルイス・リーキーにちなんで名づけられたキャンプ・リーキーという所があります。オランウータンのリハビリ,研究,保護のための施設です。ここでは間近でオランウータンを見ることができます。近くまで寄ってきてポーズを取ったり,パフォーマンスをしたりすることもあります。わたしの友人は,おとなの雌にジャケットを取られそうになりました。愛らしいオランウータンたちをすぐそばで見られて,感動しました。

とはいえ,キャンプ・リーキーに行くと,厳しい現実にも気づかされます。オランウータンは絶滅の危機に瀕しているのです。野生のオランウータンは10年以内にいなくなってしまうだろうと考える環境問題の専門家たちもいます。脅威となっている三つの主な事柄を考えてみましょう。

森林伐採過去20年間に,オランウータンの生息に適した森林の約80%が失われました。インドネシアでは毎日,平均50平方㌔ほどの森林が失われています。毎分,サッカー場5個分の広さが消失しているのです。

密猟。人間に森林を奪われた結果,オランウータンはハンターに狙われやすくなっています。その頭蓋骨は,闇市で土産物として7,000円ほどで売られます。作物を荒らされないようにオランウータンを殺す人もいれば,食べるために殺す人もいます。

ペット売買。かわいいオランウータンの赤ちゃんには,闇市で数万円から数百万円もの値が付きます。売られる赤ちゃんは毎年およそ1,000頭に上ると推定されています。

政府と民営の機関により,オランウータンを絶滅から救う取り組みがなされています。行なわれている事柄には,リハビリ用施設の設立,教育プログラムによる啓発活動,国立公園や保護区の指定,違法な森林伐採の取り締まりなどがあります。

アマゾン奥地に生きる様々な人々

南アメリカ大陸には,ペルーのアンデス山脈のふもとから東に広大な森林が3,700㌔も広がっています。やがてこの緑の海は青い大西洋に達します。

アマゾン

ペルーでは,このジャングルすなわちアマゾンが,国土のほぼ60%を占めています。そこに住んでいる人々はペルーの人口のごく一部ですが,高さ35㍍のうっそうとした木々の下には動植物があふれています。実際,アマゾンは世界有数の生命の宝庫と言われています。3,000種以上のチョウが,暑く湿っぽい空気の中をひらひらと舞っています。4,000種ほどのランが,華麗な花を咲かせています。90種を超えるヘビが,大枝や林床に潜んでいます。そして,電気ウナギやピラニアを含む推定2,500種の魚が大小の川を泳ぎ回っています。

それらの河川のうち最大のものはアマゾン川です。地域によっては毎年2,500㍉から3,000㍉の雨量があり,そのためにアマゾン川と1,100の支流が氾濫して森林を水浸しにします。暑さと湿気が合わさって蒸し風呂のようになるので,植物にとっては理想的です。とはいえ,草木が青々と茂る土壌は粘土質で,世界でも特にやせた土地と考えられており,耕作には向いていません。

アマゾンの人々のルーツ

このような場所にだれが住み着いたのでしょうか。考古学者たちは,過去数世紀にわたって数百万の人々がアマゾン流域に住んでいたと推定しています。現在,40以上の民族グループから成る推定30万人がペルーのアマゾン地域で暮らしています。そのうちの14のグループは外界からほとんど孤立して生活していると考えられています。それらの人々は“文明”社会に幾らか接触しましたが,それ以上かかわり合うことを望まず森林の奥深くに引きこもってしまいました。

アマゾンの人々

ジャングルで生活する人々は,いつまたどこから来たのでしょうか。専門家は,西暦紀元より数世紀前に最初の移住者が北方から来たと推測しています。ヒバロ族(殺害した敵の頭部を縮める慣行で有名)はカリブ海諸国から,アラワク族はベネズエラから来ました。東のブラジルや南のパラグアイから来た部族もいるとされています。

たいていの部族は定住すると,その特定の地域内で狩猟や採集を行なったようです。キャッサバ,トウガラシ,バナナ,トウモロコシなど酸性土壌に適した作物も栽培しました。スペインの年代記作者によれば,一部の部族はよく組織されており,食料保管所や野生動物の飼育法を考案しました。

アマゾン文化の衝突

16世紀と17世紀に,スペインの征服者がアマゾンに侵入し,その後を追うようにしてイエズス会やフランシスコ会の宣教師たちがローマ・カトリックに人々を改宗させようとしてやって来ました。宣教師たちは優れた地図を作成し,ヨーロッパの人々の関心をアマゾンに向けました。とはいえ,疾病と破壊ももたらしました。

アマゾン川

例えば1638年,現在のマイナス郡に当たる場所に伝道所が設立されました。宣教師たちは先住民を集め,対立する部族を一緒くたにして共同生活を強要しました。どんな“高潔な”目的でそうしたのでしょうか。先住民は無知で劣っているとみなされ,宣教師や征服者のために強制的に働かされたのです。ヨーロッパの人々と接触した結果,多くの先住民がはしか,天然痘,ジフテリア,ハンセン病などで亡くなりました。さらに大勢が餓死しました。

様々な宗教団体の建てた伝道所から数多くのインディオが逃げ出し,暴動の中で少なからぬ宣教師が殺されました。それで,19世紀の初めのころには,アマゾン地域に司祭が一人しかいない時期もありました。

アマゾンの現在の生活様式

今日,多くの先住民は伝統に従って生活を続けています。例えば,家を伝統的な方法で建てます。森林から切り出した木で骨組みを作り,ヤシなどの防水性の葉で屋根を葺きます。家は支柱の上に建っているので,毎年起きる洪水の被害を受けず,危険な動物もめったに侵入して来ません。

衣服や装飾品は部族によって様々です。ジャングルの奥深くで暮らす先住民は,腰布や短い編んだスカートを着用し,子どもたちは裸のままです。外界との接触が多い人々は,西洋スタイルの服を身に着けています。鼻や耳たぶに穴を開けて,輪,棒,骨,羽を付ける人もいます。マヨルナ族などは,ほおに穴を開けます。トゥクナ族とヒバロ族の中には,歯を研いだり削ったりする人もいます。様々な部族で,多くの人が体の毛を剃って入れ墨をします。

アマゾン ボート

アマゾンに住む人々は多種多様な植物を知っていて,森林を薬箱として用います。植物を採って来て,ヘビにかまれた傷,赤痢,皮膚病などの治療に使います。西洋社会でゴムが使用されるようになるずっと前から,アマゾンの人々はゴムの木に傷をつけて樹液を採り,それで作業用のかごに防水加工を施したり,ゴムボールを作ったりしていました。乗り物や遠距離通信の道具も森林から得た材料で作れます。例えば,木を切り倒してえぐり,川を行き来するためのカヌーを製作します。また丸太をくりぬいて太鼓を作り,それをたたいてかなり遠くにまでメッセージを伝えることができます。

アマゾンのシャーマンと迷信

アマゾンに住む人々にとってジャングルは,夜にさまよう魂,病気をもたらす精霊,油断している人を川の中で待ち構えている神などであふれています。ペルーで特に大きい部族であるアグアルナ族のことを考えてみましょう。彼らは五つの神をあがめています。「父なる戦士」,「父なる水」,「母なる大地」,「父なる太陽」,「シャーマンなる父」です。多くの人々は,動植物は人間が姿を変えたものであると信じています。精霊を怒らせることを恐れて,特定の動物を殺すことを避け,ほかの動物も必要な時にしか狩りません。

アマゾン シャーマン

伝統的な宗教生活とその社会を取りまとめているのはシャーマンつまり呪医です。シャーマンは,幻覚を誘発する植物を用いて恍惚状態に入ります。村人の中には,シャーマンを頼って,病気の治療,狩猟や農耕の結果の予告,将来の予言をしてもらう人もいます。

アフリカの市場に行ってみましょう

ある国の文化や習慣,料理を知るための良い方法の一つは,市場を訪ねることです。そこでは,土地の人々を観察し,地元の物を味わったり買ったりすることができます。いろいろな店の人が声をかけてきます。言葉の壁は問題にはなりません。

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アフリカの市場ほど魅力的な市場はなかなかないでしょう。人々であふれ,考え得るあらゆる物が売られています。そこではアフリカの鼓動を感じることができます。では,カメルーンのドアラにある,いかにもアフリカらしい市場に一緒に行ってみましょう。

アフリカ式で市場に行く

アフリカの多くの大都市で,市場に行くのに最も安くて速い方法はバイクタクシーです。たいていの街角で,客を待ち構えています。勇気があるなら,どれか一台を選んで載せてもらいましょう。カメルーンでは,料金とスピードでバイクタクシーにかなう交通手段はありません。

それほど冒険好きでない方には,普通のタクシーもあります。たいてい,幾人かの客が相乗りしてみんなで料金を払います。

アフリカの市場を初めて訪れた人は,あまりの人の多さと立ち並ぶ店に圧倒されるかもしれません。大人も子どもも,商品を頭に載せて運んでいます。よく見ると,かごの中には,生きた鶏,皮をむいたオレンジ,各種の薬など,いろいろな物が入っています。

アフリカ市場

並んだ台の上に,キャベツ,ニンジン,キュウリ,ナス,カボチャ,サヤインゲン,サツマイモ,トマト,ヤムイモ,レタスが積まれています。別の大陸から来た人には,初めて見る物もあるかもしれません。アフリカでは人気があっても,ほかではあまり知られていない物があります。最も色鮮やかなのは,赤や黄色のトウガラシを売っている店でしょう。取りたてで,朝日を浴びてきらきら光っています。アボカド,バナナ,グレープフルーツ,メロン,パイナップル,オレンジ,レモンを売っている店もあります。とてもおいしそうで,値段も魅力的です。地元の主食であるヤムイモ,キャッサバ,米が,輸入品のタマネギやニンニクと一緒に,きちんと置かれています。

ドアラの一つの市場は,店の人の多くがハウサ族かフラ族です。ガンドゥーラやブーブーと呼ばれる青や白や黄色の長い服を着て,フルフルデ語で陽気にあいさつするので,目立ちます。市場では,ほのぼのとする経験をすることもあります。今回,ある店のイブラヒムさんが,大きなタマネギ三つをプレゼントしてくれました。「香辛料を利かせた米を中に入れてじっくり火を通すよう,奥さんに言いなさい」とのことでした。

歩いてゆくと,ばらしたての肉が売られています。ほとんどは牛かやぎの肉です。がっしりした男の人たちが,屠殺された大きな動物を肩にかついで運んで来て,台の上に放り出します。肉屋が,長い包丁を器用に振り回し,切った肉を選ぶよう客に勧めます。自分で処理したい人のために,生きたやぎ,鶏,豚も売られています。

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チョップハウスで食事

どこの市場にも食事をする場所があるものです。カメルーンでは,市場にある食堂はチョップハウスと呼ばれています。客の注意を引くために音楽を大きな音で流している店もありますが,アフリカ料理を注文して地元の人と触れ合える静かな店もあります。メニューは黒板に書かれていますが,地元の料理を知らない人は説明してもらう必要があるかもしれません。

基本となるのは,ご飯とフフです。フフとは,マニオクかプランテーンかヤムイモをたたいてつぶしたものです。直火焼きの魚や牛肉や鶏肉に,オクラやピーナッツバターやトマトのソースをかけた料理もあります。チョップハウスはのんびりとした雰囲気で,ゆっくり会話ができます。

二人のウエートレスがわたしたちのテーブルに来ます。一人は,ご飯,豆,フフでいっぱいの金属製の皿が載った大きなトレーを運んで来ます。ここの定番は,オクラソースに,肉や魚の串焼きの付け合わせです。辛いのが好きな人のために,チリソースの小瓶もあります。もう一人は,手を洗うための水の入ったボールとタオルを持って来ます。地元の料理は昔からナイフやフォークを使わずに食べるので,これが必要なのです。

キルギスを訪ねる

キルギス

キルギスは中央アジアの国で,氷を頂いたそびえ立つ山々に囲まれています。カザフスタン,ウズベキスタン,タジキスタン,中国と国境を接しており,国土のほぼ90%は山地です。キルギスには,天山山脈の最高峰があり,その標高は7439㍍です。広大な国土の約4%を森林が占めています。世界最大規模のくるみの原生林があることでも有名です。

キルギスの人々は,人をよくもてなし,敬意を払うことで知られています。例えば,年上の人には敬語を使って話しかけ,公共の乗り物で席を譲り,食卓で上座に座ってもらう習慣があります。

キルギス家

1家族には大抵,3人以上の子どもがいます。普通は末の息子が結婚後も親と同居し,老後の世話をします。

女の子は,幼い時から,良い主婦になるための実用的な技術を教えられます。ですから,十代半ばには上手に家事をこなせるようになります。結婚する時には,様々な寝具や衣服,手製のじゅうたんなどを持参します。花婿側はお金や家畜などを贈ります。

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祝い事の際にも葬儀の際にも,羊か馬が1頭屠られ,幾つかの部分に分けられて,特定の部位が特定の人に渡されます。客の年齢や地位に応じて,それぞれにふさわしい分が与えられます。この場合も,やはり人に対する敬意が重要な要素となっています。その後,ベシュバルマクと呼ばれる郷土料理が振る舞われます。この料理は手で食べます。

キルギスの概要

  • 人口: 577万6000 人首都: ビシケク
  • 公用語: キルギス 語,ロシア 語
  • 輸出品: 綿花,ウール,金,水銀,ウラン
  • 宗教: イスラム 教(80 %)
  • 通貨レート: 1 キルギス・ソム = 1.5 円 (09/13)
  • 物価: 水500mlで10~15キルギス・ソム。1食分20~80キルギス・ソム。安宿ドミトリで135キルギス・ソムくらいから。
  • 治安: キルギス治安危険 「渡航の是非を検討してください。」
  • フライト時間: 直通なし:ウズベキスタン経由だと最低9時間
  • 水: 水は飲まない方が良い。氷も注意。
  • チップの有無: 不要。気持ちでチップ。
  • ビザ: 観光ビザ不要。パスポート残存期間は出国時以上。
  • 電圧とコンセント: 220VでC型

キリギスの天気

塔の並ぶ山岳地スバネティ

私たちはグルジアにある,築800年の石塔のいちばん上にいます。屋根の梁にしっかりつかまり,開口部から身を乗り出しました。高さ25㍍の見晴らしのきく場所から,スバネティ地方の中心であるメスティア村に立ち並ぶ,他の幾十もの昔ながらの塔がよく見えます。

スヴァネティ

傾斜のなだらかな谷には青々とした草原が広がり,その周りを,雪を頂いた雄大な山々が囲んでいます。私たちは,昔からあるこの場所に魅了されました。まるで中世にタイムスリップしたかのようです。スバネティの有名な塔を見物するのが今回の旅の目的です。

山岳地方を訪れる

山岳地スバネティへの旅は,黒海に近いグルジアの都市ズグジジから始まります。朝の空は晴れ渡り,そこからでも見事な白い連峰がよく見えます。私たちはイングリ川まで来ると,今度は峡谷沿いをゆっくり進んでゆきます。周囲の森林地にはシダ,ツツジ,月桂樹が豊かに育ち,クリーム色の花を咲かせるシャクナゲも群生しています。

私たちの一行は夕刻までに,絵のような景色のベチョ村に到着しました。村は,息をのむほど美しいウシュバ山のふもとに位置しています。その山には,そびえ立つ花崗岩の二つの峰があります。氷で覆われたウシュバ山の峰には,光に集まる虫のように,登山家たちが引き寄せられます。標高4,710㍍のその山は「カフカスのマッターホルン」とよく呼ばれます。

スバネティ町並み

旅で疲れ,お腹を空かせていた私たちは,地元の羊飼いを呼び止めて羊を一匹買いました。夕食に用いるためです。やがて屋外で火を囲み,スバン族の友人たちの親切なもてなしを受けました。夕食のメインはおいしいムツバディです。一般にはシシカバブと呼ばれます。それをラバッシュという焼きたての平たいパンと共にいただきました。グルジアのそのパンは,薪をくべた土窯で焼いたものです。食事の終わりに,サペラビと呼ばれるグルジア原産のこくのある辛口の赤ワインを楽しみました。

翌朝,メスティアに向かいました。冒頭で塔からの眺めに触れましたが,それはここメスティアでのことです。スバネティの山岳風景は世界でも指折りの美しさであると感じました。メスティアからさらに45㌔ほど進んだ山間部に,ウシュグリという村があります。標高2,200㍍にもなる場所に人々が居住しているため,「ヨーロッパ一高い所にある,人が一年じゅう住む村」と呼ばれています。

山間のこの村に行くため,ひっそりした狭い山道を進みました。道の片側は絶壁で,はるか下のほうには川が流れています。ようやくウシュグリに着いた私たちの眼前に,忘れがたい景色が広がり,来てよかったと思います。中世の塔の周りに家々が固まって建ち,そのすぐ後ろに雄大なシュハラ山がそびえています。まばゆいばかりの白い山肌が,紺碧の空とくっきり対照を成しています。

標高5,201㍍のシュハラ山はグルジアの最高峰で,「ベゼンギの壁」と呼ばれる12㌔に及ぶ稜線の一部を成しています。この高さに近い峰々が稜線に連なっています。それは,全長1,207㌔に及ぶ大カフカス山脈の一部でもあります。私たちは,緑豊かで景色のよい谷を見渡すことができました。もっとも,それらの谷には,スバネティ地方の住人か,よほどの冒険家でなければ行くことはできません。

この土地に住む人々

アッパー・スバネティに住むスバン族は,古来の民族で,独自の言語を持っています。長年,いかなる領主による支配も拒む人々として知られてきました。18世紀に,ある探検家はスバン族について,「社会の新しい理想を実現し,個人の自由が他のあらゆる理念よりも重視される」という観察を述べています。

スバネティの人々が,ほかでは見られない自由を保ってきたことには,二つの要因が関係しています。第一に,非常に高い連山が防壁となって住人が外の世界から隔絶され,侵入者から守られた,という点があります。第二に,塔によってそれぞれの家族の独立が守られました。塔は実際の敵や,時に敵対的にもなる近隣の村の人たちからの保護となりました。さらに,雪崩が起きて小さな建物が埋もれても,塔は無事でした。

塔での暮らし

スバネティ塔での暮らし

私たちは,12世紀に建てられた,スバン族の家族の塔を見物できることになりました。要塞は二つの部分から成っています。ムルクバムと呼ばれる塔の部分と,コルと呼ばれる,塔につながった家の部分です。コルの1階には大きな暖炉があり,それが暖房にも照明にもなります。家長が座る大きな木製の椅子も目を引きます。家長は,妻や,息子たちとその妻たちから成る大家族を治めます。家事は女性が交替で果たしました。粉ひき,パン作り,炊事や掃除,動物のえさやり,大きな暖炉の火の番などがその務めでした。

大きな塔は石で造られ,白みを帯びた粗いしっくいで覆われました。四つの階があり,つながっている2階建ての家よりも高くなります。家の中から塔に入った時には,薄暗さに慣れるまで幾らか時間がかかりました。塔の下のほうの階は倉庫として用いられ,水,小麦粉,果物,チーズ,ワイン,肉などが貯蔵されました。

家族は緊急時には塔の下と中央の階で寝起きしました。石材の屋根で覆われた最上階は,実質的に攻撃を行なうための階であり,胸壁に小さな開口部がありました。19世紀にこの地方を訪れた人は,「決まり事に従って生活を取り締まる役人などはおらず,常に武器がものをいう」と伝えています。そのため,どの家族も自衛のために戦えるよう備えをしていました。

スヴァネティ グルジアへのフライト情報

スヴァネティはトビリシ国際空港 (トビリシ, グルジア) から 235 km です。

東京発トビリシ(グルジア) 行きの航空券 最安83,600円より

大阪発トビリシ(グルジア) 行きの航空券 最安82,600円より

名古屋発トビリシ(グルジア) 行きの航空券 最安82,600円より

福岡発トビリシ(グルジア) 行きの航空券 最安82,600円より

タタールスタンを訪ねる

わたしは子どものころから,「ロシア人,一皮むけばタタール人」ということわざを知っていました。自分はロシア人だと思っていたのですが,つい最近,祖父がタタール人だったと親戚から聞きました。 友達にそのことを話すと,何人かが自分の先祖もタタール人だと言いました。

タタールスタン カザン

タタール人の中には,芸術やスポーツなどの分野で有名な人たちがいます。例えば,著名なダンサーでバレエ界に大きな影響を与えたルドルフ・ヌレエフは,ロシアのタタール人家庭の生まれです。現在,700万人ほどのタタール人が,旧ソ連の国々で暮らしています。タタール人のことを少しお話しましょう。

昔のタタール人

タタール人は幾世紀にもわたり,モンゴル人やトルコ人の歴史に登場します。13世紀には,モンゴルの首領チンギス・ハンの軍事作戦に参加しました。 チンギス・ハンの帝国は拡大し,旧ソ連に匹敵する広さになりました。1236年,モンゴルの15万の軍勢がヨーロッパに攻め込み,ウラル山脈西側のロシアの都市を襲撃します。

ほどなく,モンゴル人はロシアを征服し,モンゴル人とトルコ人の混合国家を樹立します。その西側部分はキプチャク・ハン国と呼ばれ,首都バトゥ・サライはボルガ川の下流にありました。領土は,シベリアの一部,ウラル山脈,遠くはウクライナとグルジアのカルパティア山脈とカフカス山脈を含みました。ロシアの諸公国はキプチャク・ハン国に貢ぎを納めるようになります。15世紀に,キプチャク・ハン国は,クリム,アストラハン,カザンといった管轄区域に分割されました。

タタールスタンと首都カザン

カザン首都

現在のタタールスタン共和国は,人口400万の多民族国家です。ロシアのヨーロッパ側地域の東部に位置し,面積は6万8,000平方㌔です。「ロシア連邦内で有数の経済発展を遂げた国」と言われており,ロシアの石油およびガスの主要生産地です。航空機産業や自動車産業も盛んで,国内には空港が幾つもあります。

カザンは,ボルガ川とカザンカ川の合流点に位置する人口100万ほどの近代都市で,ロシアの他の都市と同様,美しい地下鉄があります。 それぞれの駅にテーマがあり,近代的なデザインだったり,東洋風あるいは中世風の雰囲気だったりします。ある駅には,タタールのおとぎ話のフレスコモザイク画22枚が飾られています。

カザン連邦大学は,ロシア皇帝アレクサンドル1世によって1804年に創立された大学で,ロシア屈指の蔵書量を誇る図書館があります。教育および文化の中心地となっており,タタールスタンの他の大学の先駆的存在です。500万冊の蔵書には3万もの古代写本が含まれ,そのうちの幾つかは西暦9世紀の写本です。

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市の中心部のバウマン通りは,魅力的な店やカフェが立ち並び,散策するのにぴったりです。最近,わたしたち夫婦は,カザン市内を観光した後,のんびりとボルガ川クルーズを楽しみました。

カザンのもう一つの名所は,城塞(クレムリン)です。現在までロシアに残っているタタール人の城塞としては唯一のもので,建物の一部は16世紀に建築されました。このクレムリンの城壁の内側に入ると,シュユンベキ塔,タタールスタン政府の建物,モスク,正教会の教会堂を見ることができます。

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カザンのクレムリンは,2000年にユネスコの世界遺産として登録されました。夜になると,照明が川に反射して,クレムリンの建物群の美しさが引き立ちます。

タタールスタンの人々と言語

タタール人は,ロシアのチュルク系民族の中では最も人口が多く,合計550万人ほどいると言われています。しかし,広大なロシアにタタール人が実際に何人いるかは不明です。タタール語はチュルク諸語に属しており,チュルク諸語には,アゼルバイジャン語,ウズベク語,カザフ語,キルギス語,トゥバ語,トルクメン語,トルコ語,ノガイ語,バシキール語,ヤクート語などが含まれます。これらの言語の幾つかは似通っているため,一つの言語を話す人はもう一つの言語も多少理解できます。

世界にはチュルク諸語を話す人が100万人以上います。タタールスタン各地の都市の人たちは,タタール語とロシア語の両方を使います。新聞,本,ラジオ,テレビもそうです。劇場では,タタール人の歴史や民話や日常生活を題材にしたタタール語の演劇も上演されています。
カザンなどの都市の店先の看板や道路標識は,ロシア語とタタール語の両方で書かれています。ロシア語には,タタール語に由来する単語がたくさんあります。1928年に,タタール語の表記はアラビア文字からローマ字に変わりました。そして1939年以降は,ロシア語キリル文字とほぼ同じ文字が使われています。

タタールの伝統

昔,タタール人の生活は狩猟と牧畜を中心としていました。今日でも,伝統的な肉料理がたくさんあります。その一つ,家庭料理として人気のベレシュは,たいていパイのような形をしており,中にジャガイモ,肉,タマネギ,スパイスを詰めて,オーブンで2時間焼きます。それから,食卓に着いたみんなの前で,湯気の出ている熱々のパイを切り分けます。

タタールスタンの祝祭日の中で最も歴史が古くて有名なのは,サバントゥイでしょう。サバントゥイは,太陽の神と先祖の霊に祈りと犠牲をささげる宗教慣行に基づいています。昔の人々は,そうした犠牲によって自分たちの血筋が保たれ,家畜が殖え,土地が実り豊かになると信じていました。

タタール人は馬が好きです。馬は伝統文化の重要な一部であり,昔の遊牧生活を思い出させます。カザンには世界有数の馬術場があり,そこには12棟の厩舎と獣医科診療所だけでなく,馬用のプールもあります。

タタールスタンの概要

タタールスタン共和国は、ロシア連邦地域管轄区分のひとつ沿ヴォルガ連邦管区の中央に位置する共和国である。公用語はロシア語とタタール語。1992年には主権宣言を行った。

タタールスタンのチケット情報

東京発タタールスタン カザン(ロシア)行きの航空券 最安 63,700円から

大阪発タタールスタン カザン(ロシア)行きの航空券 最安 77,000円から

名古屋発タタールスタン カザン(ロシア)行きの航空券 最安 85,800円から

福岡発タタールスタン カザン(ロシア)行きの航空券 最安 85,800円から

北海道発タタールスタン カザン(ロシア)行きの航空券 最安 85,800円から

タタールスタンの天気

タタールスタンのおすすめ情報・観光・おみやげ

ドゥームズデー・ブック ― 画期的な土地台帳

フランスのノルマンディー公ウィリアムは,1066年にイングランドを征服しました。それから19年後,ウィリアムは新たな領土の調査を命じます。調査結果をまとめた文書はドゥームズデー・ブックと呼ばれるようになり,今でもイギリスの重要な歴史資料となっています。どんな価値があるのでしょうか。

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ウィリアムは,1066年9月にイングランドに上陸しました。そして10月14日,ヘースティングズでイングランド王ハロルドの軍を打ち破り,ハロルドは殺されます。その年のクリスマスの日,後に征服王として知られることになるウィリアムは,ロンドンのウェストミンスター寺院で戴冠しました。新たな王の下で,イングランドの住民はどうなるのでしょうか。

ドゥームズデー・ブックの大規模な調査

ウィリアム1世がイングランドの北部を徹底的に破壊したため,多くの土地で人口が激減しました。「当時のかなり野蛮な基準からしても,この“北部侵略”(1068‐1070年)は残酷と評さざるを得ない」と,オックスフォード大学の元専任講師トレバー・ローリーは書いています。ウィリアムは絶えず反乱に悩まされ,彼の1万人足らずの占領軍は,200万人の敵対的な住民に囲まれていました。ノルマンディーの人々はイングランド各地に500以上の要塞を築きます。最も有名なのがロンドン塔です。

征服から19年後の1085年12月,ウィリアムはイングランドのグロスターで,廷臣たちと5日がかりで調査計画を練ります。ロンドンとウィンチェスターを除くイングランド全土を調査するのです。年が明けると,王の任じた調査官たちが七つの地方に同時に派遣されました。州の代表者から情報を集め,イングランドの資産を査定するためです。

王は,自らの占領軍に報酬を支払うため,資金を工面しなければなりません。また,土地所有権をめぐる争いを解決する必要もありました。これらを実現できれば,ノルマンディーやフランスの他の地域の人々がイングランドに定住し,ノルマン人が優勢でいられます。

“ドゥームズデー”

ウィリアム王は,イングランドに対して勝利を収めるとすぐに,イングランド貴族の所有地をノルマン人の諸侯に与えました。ウィリアムの調査によると,イングランドの土地の半分を所有していたのは200人ほどの人でしたが,そのうちイングランド人は2人だけでした。イングランド人の転借人は6,000人ほどで,その多くは1066年以前に所有権を持っていた土地を賃借するしかなく,土地のない貧しい人たちは生きていくのがやっとでした。

この調査により,ノルマン人の土地所有が合法化されました。また,課税のために,土地や借家,森や牧草地も再評価され,牛や豚も調査対象になりました。抑圧されたイングランド人は,この調査に不安を覚えましたが,抗議しても無駄だと分かっていました。この大規模な調査は「裁きの日(デー・オブ・ドゥーム)」を連想させたので,後に「ドゥームズデー・ブック調査」と呼ばれるようになります。

ドゥームズデー・ブックは2巻から成っており,羊皮紙にラテン語で書かれています。ページのサイズが大きいほうの「グレート・ドゥームズデー」は413ページ,小さいほうの「リトル・ドゥームズデー」は475ページあります。 ウィリアムは1087年に亡くなり,ドゥームズデー・ブックは未完のままになりました。とはいえ,これほどの調査をどのようにして1年以内に終えたのでしょうか。

ノルマン人はイングランドの統治機構を踏襲し,土地所有者と借地人に関する情報や,財政と租税の記録も利用しました。それらを基にして,新たな課税評価を行なうために各州に調査官を派遣し,査定を行なったのです。

ドゥームズデー・ブック現在でも使われる

中世においてドゥームズデー・ブックは,王家の移転に伴い,いろいろな場所に移されました。当初はおもに土地をめぐる争いを解決するために使用されました。18世紀には,英国の有名な法学者ウィリアム・ブラックストン卿によって,どの借地人に投票権があるかを特定するための資料として用いられました。現在では,英国の国立公文書館に保管されています。

作成から900周年に当たる1986年,ドゥームズデー・ブックは再製本されて5巻になりました。学者や歴史家は,改訂された英語訳を利用できます。BBCはドゥームズデー・ブックについて,「我が国の公的記録の基盤をなす文書であり,土地所有権を裏付ける証拠として今日でも有効である」と述べました。1958年,ドゥームズデー・ブックに基づいて,昔のある町が市を開く権利を有していたことが確証されました。

考古学者たちは今も,中世のイングランド人やノルマン人の集落の場所を特定するためにドゥームズデー・ブックを参考にしています。ドゥームズデー・ブックは,イギリスの発展の基礎となった情報を収めた貴重な資料なのです。

ドゥームズデー・ブック関連

思わずにっこり – ティンガティンガ・アート

「ティンガティンガには,子どものような気持ちで見た世界が描かれている。ユーモラスで,楽しくて,カラフルな世界だ」とティンガティンガ・アート協同組合の責任者ダニエル・オーガスタは書いています。ティンガティンガはアフリカを題材にしたアートで,アフリカの野生生物や文化,特にこの絵の発祥の地タンザニアの生活や風景がモチーフになっています。

ティンガティンガ

ティンガティンガという名称は,このアートの創始者エドワード・サイディ・ティンガティンガに由来しています。エドワードは1932年に生まれ,タンザニア南部の村で育ちました。そこで見た田舎の風景や野生動物から強い印象を受けたようです。20代半ばの時,仕事と良い暮らしを求めて家を離れます。そして首都ダルエスサラームに来て,庭師の仕事を見つけました。晩になると,音楽やダンスで芸術的な才能を発揮し,パフォーマーとして有名になりました。

1968年,エドワードの人生に転機が訪れます。公務員となり,ダルエスサラームのムヒンビリ公立病院で病棟の世話係をすることになったのです。そこにいる間に,子ども時代の生き生きとした思い出や印象を自分なりのアートで表現する時間を見つけました。こうして,ティンガティンガ・アートが生まれたのです。エドワードは,専用の絵筆や絵の具や塗料などを買えなかったので,地元の建材店などで手に入る材料を使いました。例えば,塗料は自転車用のエナメルペンキ,“キャンバス”は片面が滑らかで光沢のある建築用合板といった具合です。この板は,絵につやを出すのにぴったりでした。

エドワードの画法はとてもシンプルでした。背景は1色か2色だけで,そこにアフリカの動物のイメージ画を一つ,枠いっぱいに鮮やかな色で描きます。風景やほかの細かいものは,いっさい付け加えませんでした。

エドワードは,自分が絵をかいているところをごく少数の親しい友人や身内にしか見せませんでした。しばらくして,そのうちの何人かが“弟子”になり,その絵のスタイルの人気は高まってゆきました。

当初からティンガティンガ・アートは,鮮やかな色遣いと,くっきりした輪郭のシンプルな絵が特徴となっています。しかし時の経過と共に,このスタイルは発展し,作品に描かれる図柄は手の込んだものになってきました。人々や動物といった様々な題材で絵をいっぱいにするアーティストもいます。

どこから発想を得るか

ティンガティンガ・アートの発想となるものはほとんど無限にあります。アフリカのあらゆる動植物,例えばレイヨウ,バッファロー,ゾウ,キリン,カバ,ライオン,サル,シマウマ,また,草花や樹木,鳥や魚です。とりわけ,はっきりした色のものが好まれます。よく背景に描かれるのは,タンザニア北東部に位置するアフリカの最高峰キリマンジャロ山です。

最近の絵には,アフリカの人々や文化も登場し始めています。にぎやかな市場の一日,地元の病院での一こま,村の生活の様子などを描いた作品もあります。

その始まり以来,ティンガティンガ・アートは,芸術的な才能を持つアフリカの人たちにとって自分を表現する手段となってきました。またそれは,生計を補う良い方法ともなっています。そのアーティストたちは,ダルエスサラームで画家の協同組合を作っています。自転車用のエナメルペンキを使って描く伝統的なスタイルを守っている人もいます。エドワード・ティンガティンガは1972年に亡くなりましたが,もし今生きていたとしたら,自分の生み出したアートの人気と広がりを見て,思わずにっこりすることでしょう。

ティンガティンガグッズ

金を探し求めて,安住の地を見つけた人たち – オーストラリア

チャイナタウン。この言葉を聞くと,世界中の多くの都市で見られる中国人の商店,飲食店,祭り,龍の舞いの色鮮やかな光景が目に浮かびます。とはいえ,チャイナタウンにはそれぞれ独自の歴史があります。オーストラリアの場合は,初期の果敢な中国人移住者が礎を築きました。新たに見つかった金鉱での一獲千金を夢見て南へ向かった人たちです。

チャイナタウン

新金山

当初オーストラリアに移住する中国人はわずかでしたが,1851年に金が発見されると怒濤のように押し寄せ始めました。幾万という男たちが,広東<カントン>省にある珠江のデルタ地帯を去り,南へ向けて困難な船旅に出たのです。それより前に米国カリフォルニア州で金が見つかっており,広東語を話す中国人はその金鉱地を“金山”と呼んでいました。そのため,オーストラリアの金鉱地は“新金山”と呼ばれるようになります。

オーストラリア

男たちが故郷を去ったのは,金が見つかるという見込みのためだけではありませんでした。中国では内乱や自然災害が生じ,貧困がはびこり,人々は非常に苦しい状態にあったのです。

悲しいことに,オーストラリアを目指した先駆者の中には,生きてその地を見ることができなかった人たちもいます。長い船旅の間に,超満員の船で流行した病気のために命を落としたのです。生き延びた人たちにとっても,ようやくたどり着いた新天地での生活は決して楽ではありませんでした。

金鉱地での苦労

男たちはやがて孤独感にさいなまれるようになります。妻や子どもたちは,先祖代々の家名を守るという伝統のために中国に残ったからです。1861年には3万8,000人を超える中国人男性がオーストラリアに住んでいましたが,女性はわずか11人しかいませんでした。定住しようと考えていた人は少なく,ほとんどの人は富と名誉を手にして故郷に帰ることを決意していました。

男たちはその野望を胸に,金を探し求めました。テント暮らしをしながら,炎天下で長時間,骨折って働きました。ある人たちは,少なくとも最初のころ,迷信ゆえに地下で採掘するのを恐れていました。そのため,地表近くの金を掘ったり砂金を探したりし,さらに選鉱くずを水と共に木製の樋に流し入れて金をより分けようとしました。その努力は実を結びます。記録によれば,1854年から1862年までの間にビクトリア州で18㌧を超える金が見つかり,中国に送られました。

残念なことに,せっかく手に入れた富を博打やアヘンに費やす人もいました。孤独ゆえにそうしたものに手を出してしまったのです。結果として,健康を害し,稼ぎも帰郷の見込みも失ってしまう場合が少なくありませんでした。中国人の団体や慈善家の援助を受けた人もいましたが,多くの人が貧困に陥り,若くして独り寂しく亡くなりました。

金鉱

中国人たちは,同胞ではない採金者からのねたみや不信感にも耐えなければなりませんでした。結束が固く,手ごわいライバルとみなされたからです。反感が暴動へと発展し,大勢の中国人が襲われ,金を奪われたりテントや持ち物を燃やされたりしました。そうした敵意はやがて和らぎましたが,金が発見されてから約50年後の1901年に移住制限法が制定され,アジア人のオーストラリアへの移住が規制されます。門戸が再び開かれたのは1973年のことでした。

金が採り尽くされた後

金が採れなくなった後も,一部の中国人はオーストラリアにとどまることにしました。その結果,金鉱の町には,中国人の経営する洗濯屋,飲食店,農園が次々と姿を現わします。中国人は家具の製造や新鮮な青果の販売でも有名になりました。19世紀の終わりには,オーストラリアの多くの都市にチャイナタウンが見られるようになります。アサートン,ブリズベーン,ブルーム,ケアンズ,ダーウィン,メルボルン,シドニー,タウンズビルなどです。

オーストラリアへやって来る中国人女性は少なかったので,大半の男性は独身のままでした。しかし,中にはオーストラリア人の女性と結婚する人もいました。地元の人たちから白い目で見られたにもかかわらずそうしたのです。やがて,そのような夫婦の子孫は,オーストラリア社会の重要な一部となります。

今日,かつてないほど大勢の中国人移民がオーストラリアで暮らしています。大抵は高い教育やビジネスチャンスを求めてやって来た人たちです。今ではその中にたくさんの女性もいます。そして,世界経済の変動に伴い,昔とは逆の現象が生じています。多くの男性が,家族を連れてオーストラリアに移住した後アジアに戻り,中国,香港<ホンコン>,台湾,シンガポールなどで働いているのです。

時代は大きく変わりました。しかし,世界中どこでも,移民が目指すものは昔と基本的に変わっていません。外国の地で安心して暮らし,成功を収めることを願っているのです。