塔の並ぶ山岳地スバネティ

私たちはグルジアにある,築800年の石塔のいちばん上にいます。屋根の梁にしっかりつかまり,開口部から身を乗り出しました。高さ25㍍の見晴らしのきく場所から,スバネティ地方の中心であるメスティア村に立ち並ぶ,他の幾十もの昔ながらの塔がよく見えます。

スヴァネティ

傾斜のなだらかな谷には青々とした草原が広がり,その周りを,雪を頂いた雄大な山々が囲んでいます。私たちは,昔からあるこの場所に魅了されました。まるで中世にタイムスリップしたかのようです。スバネティの有名な塔を見物するのが今回の旅の目的です。

山岳地方を訪れる

山岳地スバネティへの旅は,黒海に近いグルジアの都市ズグジジから始まります。朝の空は晴れ渡り,そこからでも見事な白い連峰がよく見えます。私たちはイングリ川まで来ると,今度は峡谷沿いをゆっくり進んでゆきます。周囲の森林地にはシダ,ツツジ,月桂樹が豊かに育ち,クリーム色の花を咲かせるシャクナゲも群生しています。

私たちの一行は夕刻までに,絵のような景色のベチョ村に到着しました。村は,息をのむほど美しいウシュバ山のふもとに位置しています。その山には,そびえ立つ花崗岩の二つの峰があります。氷で覆われたウシュバ山の峰には,光に集まる虫のように,登山家たちが引き寄せられます。標高4,710㍍のその山は「カフカスのマッターホルン」とよく呼ばれます。

スバネティ町並み

旅で疲れ,お腹を空かせていた私たちは,地元の羊飼いを呼び止めて羊を一匹買いました。夕食に用いるためです。やがて屋外で火を囲み,スバン族の友人たちの親切なもてなしを受けました。夕食のメインはおいしいムツバディです。一般にはシシカバブと呼ばれます。それをラバッシュという焼きたての平たいパンと共にいただきました。グルジアのそのパンは,薪をくべた土窯で焼いたものです。食事の終わりに,サペラビと呼ばれるグルジア原産のこくのある辛口の赤ワインを楽しみました。

翌朝,メスティアに向かいました。冒頭で塔からの眺めに触れましたが,それはここメスティアでのことです。スバネティの山岳風景は世界でも指折りの美しさであると感じました。メスティアからさらに45㌔ほど進んだ山間部に,ウシュグリという村があります。標高2,200㍍にもなる場所に人々が居住しているため,「ヨーロッパ一高い所にある,人が一年じゅう住む村」と呼ばれています。

山間のこの村に行くため,ひっそりした狭い山道を進みました。道の片側は絶壁で,はるか下のほうには川が流れています。ようやくウシュグリに着いた私たちの眼前に,忘れがたい景色が広がり,来てよかったと思います。中世の塔の周りに家々が固まって建ち,そのすぐ後ろに雄大なシュハラ山がそびえています。まばゆいばかりの白い山肌が,紺碧の空とくっきり対照を成しています。

標高5,201㍍のシュハラ山はグルジアの最高峰で,「ベゼンギの壁」と呼ばれる12㌔に及ぶ稜線の一部を成しています。この高さに近い峰々が稜線に連なっています。それは,全長1,207㌔に及ぶ大カフカス山脈の一部でもあります。私たちは,緑豊かで景色のよい谷を見渡すことができました。もっとも,それらの谷には,スバネティ地方の住人か,よほどの冒険家でなければ行くことはできません。

この土地に住む人々

アッパー・スバネティに住むスバン族は,古来の民族で,独自の言語を持っています。長年,いかなる領主による支配も拒む人々として知られてきました。18世紀に,ある探検家はスバン族について,「社会の新しい理想を実現し,個人の自由が他のあらゆる理念よりも重視される」という観察を述べています。

スバネティの人々が,ほかでは見られない自由を保ってきたことには,二つの要因が関係しています。第一に,非常に高い連山が防壁となって住人が外の世界から隔絶され,侵入者から守られた,という点があります。第二に,塔によってそれぞれの家族の独立が守られました。塔は実際の敵や,時に敵対的にもなる近隣の村の人たちからの保護となりました。さらに,雪崩が起きて小さな建物が埋もれても,塔は無事でした。

塔での暮らし

スバネティ塔での暮らし

私たちは,12世紀に建てられた,スバン族の家族の塔を見物できることになりました。要塞は二つの部分から成っています。ムルクバムと呼ばれる塔の部分と,コルと呼ばれる,塔につながった家の部分です。コルの1階には大きな暖炉があり,それが暖房にも照明にもなります。家長が座る大きな木製の椅子も目を引きます。家長は,妻や,息子たちとその妻たちから成る大家族を治めます。家事は女性が交替で果たしました。粉ひき,パン作り,炊事や掃除,動物のえさやり,大きな暖炉の火の番などがその務めでした。

大きな塔は石で造られ,白みを帯びた粗いしっくいで覆われました。四つの階があり,つながっている2階建ての家よりも高くなります。家の中から塔に入った時には,薄暗さに慣れるまで幾らか時間がかかりました。塔の下のほうの階は倉庫として用いられ,水,小麦粉,果物,チーズ,ワイン,肉などが貯蔵されました。

家族は緊急時には塔の下と中央の階で寝起きしました。石材の屋根で覆われた最上階は,実質的に攻撃を行なうための階であり,胸壁に小さな開口部がありました。19世紀にこの地方を訪れた人は,「決まり事に従って生活を取り締まる役人などはおらず,常に武器がものをいう」と伝えています。そのため,どの家族も自衛のために戦えるよう備えをしていました。

スヴァネティ グルジアへのフライト情報

スヴァネティはトビリシ国際空港 (トビリシ, グルジア) から 235 km です。

東京発トビリシ(グルジア) 行きの航空券 最安83,600円より

大阪発トビリシ(グルジア) 行きの航空券 最安82,600円より

名古屋発トビリシ(グルジア) 行きの航空券 最安82,600円より

福岡発トビリシ(グルジア) 行きの航空券 最安82,600円より

タタールスタンを訪ねる

わたしは子どものころから,「ロシア人,一皮むけばタタール人」ということわざを知っていました。自分はロシア人だと思っていたのですが,つい最近,祖父がタタール人だったと親戚から聞きました。 友達にそのことを話すと,何人かが自分の先祖もタタール人だと言いました。

タタールスタン カザン

タタール人の中には,芸術やスポーツなどの分野で有名な人たちがいます。例えば,著名なダンサーでバレエ界に大きな影響を与えたルドルフ・ヌレエフは,ロシアのタタール人家庭の生まれです。現在,700万人ほどのタタール人が,旧ソ連の国々で暮らしています。タタール人のことを少しお話しましょう。

昔のタタール人

タタール人は幾世紀にもわたり,モンゴル人やトルコ人の歴史に登場します。13世紀には,モンゴルの首領チンギス・ハンの軍事作戦に参加しました。 チンギス・ハンの帝国は拡大し,旧ソ連に匹敵する広さになりました。1236年,モンゴルの15万の軍勢がヨーロッパに攻め込み,ウラル山脈西側のロシアの都市を襲撃します。

ほどなく,モンゴル人はロシアを征服し,モンゴル人とトルコ人の混合国家を樹立します。その西側部分はキプチャク・ハン国と呼ばれ,首都バトゥ・サライはボルガ川の下流にありました。領土は,シベリアの一部,ウラル山脈,遠くはウクライナとグルジアのカルパティア山脈とカフカス山脈を含みました。ロシアの諸公国はキプチャク・ハン国に貢ぎを納めるようになります。15世紀に,キプチャク・ハン国は,クリム,アストラハン,カザンといった管轄区域に分割されました。

タタールスタンと首都カザン

カザン首都

現在のタタールスタン共和国は,人口400万の多民族国家です。ロシアのヨーロッパ側地域の東部に位置し,面積は6万8,000平方㌔です。「ロシア連邦内で有数の経済発展を遂げた国」と言われており,ロシアの石油およびガスの主要生産地です。航空機産業や自動車産業も盛んで,国内には空港が幾つもあります。

カザンは,ボルガ川とカザンカ川の合流点に位置する人口100万ほどの近代都市で,ロシアの他の都市と同様,美しい地下鉄があります。 それぞれの駅にテーマがあり,近代的なデザインだったり,東洋風あるいは中世風の雰囲気だったりします。ある駅には,タタールのおとぎ話のフレスコモザイク画22枚が飾られています。

カザン連邦大学は,ロシア皇帝アレクサンドル1世によって1804年に創立された大学で,ロシア屈指の蔵書量を誇る図書館があります。教育および文化の中心地となっており,タタールスタンの他の大学の先駆的存在です。500万冊の蔵書には3万もの古代写本が含まれ,そのうちの幾つかは西暦9世紀の写本です。

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市の中心部のバウマン通りは,魅力的な店やカフェが立ち並び,散策するのにぴったりです。最近,わたしたち夫婦は,カザン市内を観光した後,のんびりとボルガ川クルーズを楽しみました。

カザンのもう一つの名所は,城塞(クレムリン)です。現在までロシアに残っているタタール人の城塞としては唯一のもので,建物の一部は16世紀に建築されました。このクレムリンの城壁の内側に入ると,シュユンベキ塔,タタールスタン政府の建物,モスク,正教会の教会堂を見ることができます。

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カザンのクレムリンは,2000年にユネスコの世界遺産として登録されました。夜になると,照明が川に反射して,クレムリンの建物群の美しさが引き立ちます。

タタールスタンの人々と言語

タタール人は,ロシアのチュルク系民族の中では最も人口が多く,合計550万人ほどいると言われています。しかし,広大なロシアにタタール人が実際に何人いるかは不明です。タタール語はチュルク諸語に属しており,チュルク諸語には,アゼルバイジャン語,ウズベク語,カザフ語,キルギス語,トゥバ語,トルクメン語,トルコ語,ノガイ語,バシキール語,ヤクート語などが含まれます。これらの言語の幾つかは似通っているため,一つの言語を話す人はもう一つの言語も多少理解できます。

世界にはチュルク諸語を話す人が100万人以上います。タタールスタン各地の都市の人たちは,タタール語とロシア語の両方を使います。新聞,本,ラジオ,テレビもそうです。劇場では,タタール人の歴史や民話や日常生活を題材にしたタタール語の演劇も上演されています。
カザンなどの都市の店先の看板や道路標識は,ロシア語とタタール語の両方で書かれています。ロシア語には,タタール語に由来する単語がたくさんあります。1928年に,タタール語の表記はアラビア文字からローマ字に変わりました。そして1939年以降は,ロシア語キリル文字とほぼ同じ文字が使われています。

タタールの伝統

昔,タタール人の生活は狩猟と牧畜を中心としていました。今日でも,伝統的な肉料理がたくさんあります。その一つ,家庭料理として人気のベレシュは,たいていパイのような形をしており,中にジャガイモ,肉,タマネギ,スパイスを詰めて,オーブンで2時間焼きます。それから,食卓に着いたみんなの前で,湯気の出ている熱々のパイを切り分けます。

タタールスタンの祝祭日の中で最も歴史が古くて有名なのは,サバントゥイでしょう。サバントゥイは,太陽の神と先祖の霊に祈りと犠牲をささげる宗教慣行に基づいています。昔の人々は,そうした犠牲によって自分たちの血筋が保たれ,家畜が殖え,土地が実り豊かになると信じていました。

タタール人は馬が好きです。馬は伝統文化の重要な一部であり,昔の遊牧生活を思い出させます。カザンには世界有数の馬術場があり,そこには12棟の厩舎と獣医科診療所だけでなく,馬用のプールもあります。

タタールスタンの概要

タタールスタン共和国は、ロシア連邦地域管轄区分のひとつ沿ヴォルガ連邦管区の中央に位置する共和国である。公用語はロシア語とタタール語。1992年には主権宣言を行った。

タタールスタンのチケット情報

東京発タタールスタン カザン(ロシア)行きの航空券 最安 63,700円から

大阪発タタールスタン カザン(ロシア)行きの航空券 最安 77,000円から

名古屋発タタールスタン カザン(ロシア)行きの航空券 最安 85,800円から

福岡発タタールスタン カザン(ロシア)行きの航空券 最安 85,800円から

北海道発タタールスタン カザン(ロシア)行きの航空券 最安 85,800円から

タタールスタンの天気

タタールスタンのおすすめ情報・観光・おみやげ

イブン・バットゥータの見た世界

イブン・バットゥータの見た世界

それは1325年のことです。ある青年がモロッコのタンジールを出発します。以後の一連の旅によって,青年は当時知られていた世界のはるかかなたにまで足を運ぶことになります。その土地には,今のインド,インドネシア,シリア,タンザニア,トルコ,中国,ペルシャ,マリ,ロシア,それに全アラブ諸国が含まれています。青年の名はアブー・アブドゥッラー・イブン・バットゥータです。彼が旅した距離は約12万700㌔に及び,蒸気機関の発明前であることを考えると,まさに驚異的です。

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イブン・バットゥータはイスラムの旅行家,また近代以前の最大の旅行家と呼ばれています。その回想録は,30年近くに及んだ旅を終えて帰国してから記されたもので,14世紀の生活や文化,特に中世イスラム圏の生活の多くの面を明らかにしています。

メッカへの巡礼

イブン・バットゥータがタンジールを出発したのは,聖地を訪れ,ハッジ,すなわちメッカ巡礼を行なうためでした。それは,成人のイスラム教徒で,経済的・身体的に旅行の可能な人全員に義務として課されたものです。メッカはタンジールの東およそ4,800㌔にあります。多くの巡礼者に倣い,イブン・バットゥータも目的地までの安全を考え,キャラバン隊と共に移動しました。

父親がカーディー,つまりその土地の裁判官であったため,イブン・バットゥータもカーディーになるための教育を受けました。それはタンジールで受けられる最高の教育でした。旅仲間たちはこのことを知り,道中の争いごとを解決する裁判官になるよう彼に頼みました。

アレクサンドリア,カイロ,ナイル上流へ

キャラバン隊は北アフリカの沿岸を進んでエジプトに入ります。アレクサンドリアで,イブン・バットゥータは有名な灯台を目にします。古代世界の七不思議の一つとされたその灯台は,当時すでに一部が損壊していました。カイロについてはこう述べています。「見渡すかぎり無数の建物が広がり,美しさや壮麗さは類を見ず,都市に出入りする人が相まみえ,弱者も権力者も足を止め,人々の往来は波のうねりのようである」。この大都市で目にした宗教建造物,庭園,バザール,船,習慣を彼は大いに称賛しています。エジプトで聖職者や学者など有力者の庇護を求め,得ることができ,そうすることが彼の習慣となりました。

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カイロからはナイルをさかのぼって上エジプトに行きます。道中では宗教家から,さらには修道院,寄進で賄われた宿泊所や神学校などで,もてなしを受けます。それらは当時のイスラム圏の都市によく見られました。イブン・バットゥータが考えていたのは,砂漠を横断して紅海に出,海路アラビア西部に向かい,預言者ムハンマドのモスクのあるメディナに行き,そしてメッカに向かうことです。しかし,戦争で行く手を遮られ,カイロに戻ります。

長い回り道

メディナとメッカに行こうと心に決めていたイブン・バットゥータは,北のガザとヘブロンに行き,次いでアブラハム,イサク,ヤコブの埋葬地とされる場所を訪れます。エルサレムと市内の寺院“岩のドーム”に向かう途中,ベツレヘムに立ち寄ります。そこでは,クリスチャンであると言う人たちがイエスの生誕地をあがめる様子を目にします。

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次いでイブン・バットゥータは北のダマスカスに行き,著名なイスラム学者たちと共に学び,教師としての資格証書を取得します。その都市のウマイヤ・モスクについては,世界で「最も壮麗」であると述べています。地元のバザールでは宝飾品,布地,文具,書物,ガラス製品が売られ,公証人たちの区画では,「立ち会いを行なう五,六人の証人と,カーディーから結婚式を執り行なう権限を与えられた人」が控えていました。ここダマスカスでイブン・バットゥータも結婚しました。しかしその花嫁については,他の大勢の妻やめかけと同様,回想録の中で手短に言及されているに過ぎません。

ダマスカスでイブン・バットゥータは,メッカへの巡礼者の一行に加わります。道中,一行は泉のそばで野営します。そこでは水を運ぶ人が,水牛の皮で大きな水溜めを作っていました。旅人は砂漠を横断する前に,その水溜めの水をラクダに飲ませ,皮袋に水を満たしました。ついに彼はメッカに到達します。これは7回に及ぶ巡礼のうち最初のものでした。ほとんどの巡礼者は,儀式を終えると故郷に戻ります。イブン・バットゥータは違いました。ある伝記作家が述べるとおり,「純然たる冒険旅行のため」バグダッドに向かいます。

もっと遠くの世界へ

当時のイスラムの中心都市バグダッドで,イブン・バットゥータは公衆浴場に感銘を受けます。こう書いています。「それぞれの浴場には多数の個室があり,どの個室にも隅にたらいが据え付けられ,二つの蛇口からそれぞれ湯と水が出る」。ある友好的な将軍の取り計らいで,イブン・バットゥータはスルタンであるアブー・サイードに謁見できました。スルタンとの面会を終えたイブン・バットゥータは,貴重な品々を授かります。それには馬1頭と礼服1着,またバグダッドの知事にあてた書簡が含まれていました。その書簡は,ラクダや物資の提供を要請するものでした。

次いでイブン・バットゥータは船で,東アフリカの海港であるモガディシュ,モンバサ,ザンジバルに向かいます。さらに,アラビアそしてペルシャ湾へと旅を続けます。後に彼は,道中に目にした人々や習慣や物について説明しています。ソマリアでは商人たちが歓待を受け,イエメンではビンロウジが使われココヤシが栽培され,ペルシャ湾では真珠が採取されていることなどです。それから,非常な大回りをしてインドを目指します。エジプト,シリア,アナトリア(トルコ)を通過し,黒海を横切り,カスピ海の北を周り,さらに今のカザフスタン,ウズベキスタン,アフガニスタン,パキスタンなどの地域へと南下しました。

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インドから中国へ

インドでイブン・バットゥータは,デリーのスルタンのために8年間カーディーを務めます。イブン・バットゥータが旅好きであることを知ったスルタンは,彼を中国のモンゴル皇帝トゴン・テムルへの大使として遣わします。到着時に進呈するよう託された贈り物の中には,「駿馬100頭,白人奴隷100人,踊り子や歌うたいのインド人女性100人,種々の衣1,200枚,金や銀の燭台や水盤,模様を織り込んだ絹の礼服,帽子,矢筒,刀剣,真珠をちりばめた手袋,宦官15人」が含まれていました。

南インドの港カリカットで,イブン・バットゥータはジャンクと呼ばれる大型商船を目にします。それらの船の行き先は,彼が目指していた中国でした。この船には多いもので12枚の帆があり,それらはすべて竹を編んで作られていました。船乗りは1,000人にもなり,水夫600人と兵士400人で構成されていました。水夫の家族も船内で生活し,「青物などの野菜やショウガを木製の容器で[栽培]して」いたと,彼は述べています。

ところが難船のため,イブン・バットゥータは中国への外交使節としての任務を果たせませんでした。代わりに彼は,モルディブでイスラム教徒の支配者に仕えるようになりました。その土地の習慣を外の世界に知らせたのは,イブン・バットゥータが初めてでした。やがて彼は中国に入ります。見た事柄の中には好印象を持つものもあれば,宗教的には反感を抱くものもありました。中国への言及がわずかしかないため,本当にそこまで行ったのかと疑う人たちもいます。もしかしたら中国南部の幾つかの港に到達しただけなのかもしれません。

帰郷の際の悲嘆

ほぼ20年ぶりにダマスカスに戻ったイブン・バットゥータは,家に残した息子が12年前に死んだことと,タンジールに住んでいた父親が15年前に死んだことを知ります。時は1348年で,中東では黒死病が猛威を振るっていました。事実イブン・バットゥータは,カイロで毎日2万1,000人が亡くなっていると伝えています。

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1年後,45歳になったこの旅行家はモロッコに戻り,母親が黒死病で数か月前に亡くなったことを知ります。彼は国を出発した時,21歳でした。24年に及ぶ旅行で,冒険への渇望は治まったのでしょうか。そうならなかったようです。彼は程なくスペインに向かいます。3年後には最後の旅に乗り出し,ニジェール川と,今のアフリカの国マリにあるトンブクトゥ(ティンブクトゥ)という都市に足を運びました。

回想録を記すよう任じられる

モロッコの都市フェスのスルタンは,イブン・バットゥータの旅について聞きます。それで,宮廷の娯楽のために旅行記を記すよう命じ,イブン・ジュザイイを筆記者として与えます。完成したアラビア語の旅行記は,それほど多く出回りませんでした。さらに,西洋諸語への翻訳は,ヨーロッパの学者たちが19世紀にこの物語を再発見してようやく開始されました。

筆記者のイブン・ジュザイイはこの回想録を,イブン・バットゥータの口述をまとめたものとしていますが,内容を幾らか脚色したようです。そうではあっても,この作品はイブン・バットゥータの訪れた土地,とりわけ中世イスラム圏の生活,商業,慣習,宗教,政治について,他からは得られない情報を伝えているのです。

参考資料

カフカス山脈 ― 多くの言語が話される土地

カフカス山脈

次のような場所にいるところを思い描いてください。そこはスペインほどの大きさの地域で,ほとんどが山岳地です。驚くべきことに,その地域には何十もの民族が住んでいて,それぞれの言語を持っています。場所によっては,隣接する村の人たちでも互いに言葉が通じません。この土地について知った中世の地理学者たちも,やはり驚きを経験したに違いありません。その一人はこの地方,すなわちカフカス(コーカサス)地方のことを,「多くの言語が話される土地」と描写しました。

黒海とカスピ海の間に連なるカフカス山脈は,大陸や文明の接点となっています。そのため,この地方には長い歴史があり,豊かな文化が根づいています。住民はお年寄りを敬い,踊りを愛し,訪れる人を温かくもてなします。ですが,カフカス地方を訪れる人に最も強い印象を与えるのは,民族や言語の多様性です。実際,ヨーロッパでは同じほどの面積を占める地方で,これほど多くの言語が話される場所はほかにありません。

コーカサス,またはカフカース,カフカスは,黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と,それを取り囲む低地からなる面積約44万km²の地域です。

カフカス山脈

カフカスの著しい多様性

西暦前5世紀に,ギリシャの歴史家ヘロドトスは,「カフカスにはありとあらゆる民族が住んでいる」と伝えています。西暦1世紀の初めごろ,ギリシャの別の歴史家ストラボンは,この地方の70の種族に触れています。種族ごとに言語が異なり,人々は黒海沿岸の町ディオスクリアで商売をするようになりました。そこは現在,スフミとして知られています。数十年後,ローマの学者である大プリニウスは,ローマ人がディオスクリアで商売をするには130人もの通訳が必要だと書きました。

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現在でも,カフカス地方には50以上の民族が住んでいます。それぞれが独特の習慣を持ち,その民族ならではの衣服や芸術や建物に誇りを抱いています。この地方で話されている言語は少なくとも37を数えます。数百万人の話す言語もあれば,特定の村でしか話されない言語もあります。言語の違いが最も著しいのはロシアのダゲスタン共和国で,30ほどの民族がそこに住んでいます。それらすべての言語の厳密な関連や,他の言語グループとの関連は,今も定かではありません。

カフカス諸語は文字も発音もさまざま

カフカス諸語ではさまざまな正書法が用いられています。アルメニア語とグルジア語には,独自のアルファベットがあります。さらに,キリル文字の表記法を採用している言語もあれば,特殊なラテン文字を採用する言語もあります。

北西カフカス諸語では,世界で類を見ないほど多くの子音が用いられ,母音はわずかしか使われていません。ある百科事典によれば,それらの言語で子音は,「口や喉の考え得るあらゆる動きを駆使して」発声されます。カフカス諸語の一つウビフ語は,最後の話者が1992年に亡くなりました。この言語には,子音が80はあり,母音はおそらく二つしかなかったと言われています。

ある伝説に,トルコのスルタンの話が出てきます。スルタンは,ウビフ語を習わせるため一人の学者をカフカス地方に遣わします。戻った学者は,その言語を覚えられなかった理由を説明するため,小石の詰まった小さな袋を取り出します。そして,スルタンの前で小石を一気に大理石の床に落とし,こう言いました。「今の音をお聞きになりましたか。外国人には,ウビフ語はそのように聞こえるのです」。

アプリコット – アルメニアの金色の果物

アルメニアの金色の果物

アプリコット(杏)は,アジアやヨーロッパで何千年も前から栽培されてきました。ヨーロッパでは,その果物の原産地はアルメニアであると考えられており,そのため“アルメニアのりんご”と呼ばれるようになりました。

現在アルメニアで栽培されているアプリコットは50種ほどに上ります。旬の時期は6月の半ばから8月の終わりまでです。火山灰を豊富に含んだ土や長い日照時間のため,この国のアプリコットにはほかでは味わえない甘さがあります。世界でもとりわけおいしい果物と考える人がいるほどです。

多く見られる種類は,小さなプラムほどの大きさで,色は淡い金色から濃いオレンジ色までさまざまです。ビロードのような果皮としっかりした果肉が特徴で,果汁は多くなく,味は甘みの強いものも酸味の強いものもあります。よく栽培されている品種の味は,桃とプラムの中間と表現する人もいます。

アプリコット

ブラック・アプリコットなるものも栽培されていますが,それは実際はプラムとの交配種で,純粋なアプリコットではありません。うぶ毛のある皮は濃い赤紫で,中の実は黄色です。

アプリコットの木は,葉が出る前に花が咲き,よい香りのする白い花は自家受粉します。その花は,桃やプラムやサクランボの花とよく似ています。木は,冬は寒く夏は温暖な土地でよく育ちます。花を咲かせ実をつけるには,低温の続く時期が必要で,アルメニアの気候はその条件にぴったりです。

生のアプリコットは健康を増進させます。例えば,β<ベータ>‐カロテンビタミンCが豊富です。多くの人にとっては,干したもののほうがなじみ深いでしょう。生の実はとても痛みやすいこともあり,国によってはドライ・アプリコットのほうが多く出回っています。

ドライ・アプリコット

うれしいことに,ドライ・アプリコットも栄養価が高く,繊維や鉄分を多く含んでいます。この果実はまた,ジャムやジュースにしたり,アプリコット・ブランデーを作るのに用いられたりします。

アプリコットの木からは,美しい彫り物も作られます。デュデュックと呼ばれる木管楽器はアルメニアでよく使われ,“杏の木の笛”と呼ばれることもあります。首都エレバンの市内や周辺の店や市場では,杏の木のすてきな手彫りが店頭に並び,観光客の手ごろなおみやげです。

お住まいの土地で生のアプリコットが手に入るなら,ぜひ味わってみてください。この金色の果物のおいしさは,きっと期待を裏切らないでしょう。

アプリコットを使った商品

アイン・ジャールート – 歴史を変えた戦い

勇猛な騎馬軍がモンゴルから出撃し,降伏を拒む都市を次々と破壊してゆきます。1258年2月,モンゴル軍は攻撃の矛先をバグダッドに向け,城壁を突破します。その後1週間にわたって殺害と略奪が続きました。イスラム世界はモンゴル軍への恐怖に震え上がります。
モンゴル軍は西方に進撃し,1260年1月,バグダッドに続きシリアのアレッポを陥落させます。同年3月,ダマスカスも都市を明け渡し,降伏します。その後モンゴル軍は,ナブルス(古代シェケムの遺跡の近く)やガザなどパレスチナの都市も征服してゆきます。

パレスチナ

モンゴル軍の将軍フラグは,エジプトのスルタン(イスラム教徒の支配者)であるムザッファル・クトゥズに対して降伏を要求し,降伏しないなら悲惨な目に遭うだろう,と脅しました。モンゴル軍は兵力の点で,2万人のエジプト軍を15対1の割合で上回っていました。イスラムの歴史家ナジール・アフメド教授は,「イスラム世界は絶滅の危機に瀕していた」と述べています。クトゥズはどうするでしょうか。

クトゥズとマムルーク

クトゥズは,マムルークと呼ばれていたトルコ系奴隷の一人でした。マムルークは奴隷軍人として,エジプトのカイロに都を置くアイユーブ朝のスルタンに仕えていました。しかし1250年,それら奴隷軍人は反乱を起こしてアイユーブ朝を倒し,エジプトを支配し始めます。クトゥズも権力を握り,1259年にスルタンとなりました。クトゥズは百戦錬磨の戦士で,戦わずしてあきらめるような人ではありませんでしたが,モンゴル軍に対しては勝ち目がないかに見えました。しかしその後,歴史は意外な展開を見せます。

フラグのもとに,モンゴル帝国の大ハンであるモンケが亡くなった,という知らせが届きます。本国で権力争いが起きることを見越したフラグは,軍の大半を率いて撤退します。前線に残したのは1万人から2万人の兵士だけで,エジプト征服にはそれで十分だと考えました。クトゥズは,風向きが変わったことに気づきます。侵略軍を倒す絶好の機会と見たのです。

とはいえ,クトゥズ率いるエジプト軍とモンゴル軍の間のパレスチナ地域には,イスラム教徒の別の敵が来ていました。十字軍です。十字軍は聖地の奪回を目指してパレスチナに来ていたのです。クトゥズは,パレスチナでモンゴル軍と対決するために,十字軍から土地の通行許可と物資を購入する権利を得たいと考えました。十字軍はその要望を受け入れます。十字軍にとってクトゥズは,その地域からモンゴル軍を追い出してくれる唯一の望みだったからです。モンゴル軍は,イスラム教徒だけでなく十字軍にとっても悩みの種だったのです。
こうして,クトゥズのマムルーク軍とモンゴル軍との決戦の舞台が整います。

パレスチナのアイン・ジャールート

1260年9月,エスドラエロン平原のアイン・ジャールートで,マムルーク軍とモンゴル軍の戦いの火ぶたが切られます。アイン・ジャールートは古代都市メギドの近くにあったと考えられています。

歴史家ラシード・アッディーンによると,マムルーク軍はメギドに伏兵を置いてモンゴル軍を待ち伏せしました。クトゥズは騎兵隊の大半を平原周囲の丘陵地に潜ませ,小部隊に前進を命じてモンゴル軍を挑発させます。モンゴル軍は目の前にいるのがマムルークの全軍と見て突撃します。そこへクトゥズが奇襲攻撃を仕掛けたのです。隠れていた騎兵隊が突如現われて,モンゴル軍に側面から襲い掛かり,ついに侵入軍は撃ち破られました。

モンゴル軍の敗北は,それまで43年間の西方遠征において初めてのことでした。アイン・ジャールートの戦いは,参戦した兵士が比較的少数だったとはいえ,歴史上極めて重要な戦いとされています。イスラム教徒は絶滅の危機を免れ,無敵のモンゴル軍というイメージは打ち砕かれ,マムルーク軍は領地を奪還できたのです。

アイン・ジャールートの余波

モンゴル軍はその後も何度かシリアとパレスチナの地域に戻って来ましたが,エジプトを脅かすことは二度とありませんでした。フラグの子孫はペルシャに定住してイスラム教に改宗し,後にイスラム文化の擁護者となりました。その支配域はペルシャのイル・ハン国(ハンに属する国)として知られるようになりました。

しかし勝利の喜びもつかの間,クトゥズはライバルたちに殺されてしまいます。そして,ライバルの一人であったバイバルス1世が,エジプトとシリアを支配する王朝の初代スルタンになりました。多くの人は,バイバルス1世をマムルーク朝の実質的な創始者とみなしています。この王朝は経済的に繁栄し,1517年までの2世紀半のあいだ続きました。

その250年余りの期間中に,マムルーク朝は聖地から十字軍を排除し,貿易と産業を促進しました。また,芸術を奨励し,病院やモスクや学校を建設しました。マムルーク朝の支配のもと,エジプトはイスラム世界の中心地として栄えました。

アイン・ジャールートの戦いは,中東地域に影響を与えただけでなく,西洋文明の流れを方向付けたとも言えます。サウジ・アラムコ・ワールド誌(英語)はこう述べています。「もしモンゴル軍がエジプトを征服していたなら,フラグが戻って来た暁には,北アフリカを横断してジブラルタル海峡に達することができたかもしれない」。当時,モンゴル軍はすでにポーランドにも侵攻していたため,ヨーロッパは大規模な挟み撃ちに遭ったことでしょう。

同誌はこう続けます。「そのような状況で,ヨーロッパのルネサンスは起きただろうか。今日の世界は,大きく異なる様相を呈していたことだろう」。

参考資料

アラビア語が学術語として発展

アラビア語が学術語として発展したいきさつ

アラビア語は何世紀にもわたって,世界の学術語として主要な位置を占めていました。西暦8世紀以降,中東の諸都市に住むアラビア語を用いる学者たちは,科学や哲学の書物の翻訳や訂正に着手しました。扱った書物はプトレマイオスやアリストテレスの時代にまでさかのぼります。アラビア語を話す学者たちはそのようにして,昔の思想家の作品を保存し,文献として充実させたのです。

アラビア語

さまざまな概念の融合する場所

西暦7世紀から8世紀にかけて,中東では新たに二つの王朝が権力を握りました。最初はウマイヤ朝で,次がアッバース朝です。これらの王朝の版図に含まれるアラビア,小アジア,エジプト,パレスチナ,ペルシャ,イラクは,ギリシャとインド双方の影響を受けていました。そのため,王朝の新しい支配者たちは,それまでに蓄積された豊富な知識に接することができました。アッバース朝は新しい首都バグダッドを建設し,そこはさまざまな概念の融合する場所となりました。

その都でアラブ人は,アルメニア人,インド人,ギリシャ人,コプト人,中国人,トルコ人,ペルシャ人,ベルベル人,ユダヤ人,さらにはソグド人と交流しました。ソグド人は,中央アジアにあるオクサス川(現在のアム・ダリヤ川)の東方の住民です。人々は一緒に種々の学問を研究し,議論をたたかわせ,蓄えられた幅広い学識の相互交流を図りました。

アラビア

バグダッドのアッバース朝の支配者たちは,才能ある識者たちに,どこの出身であるかを問わず帝国の知的発展に貢献するよう呼びかけました。幅広い論題に関する膨大な数の図書を収集してアラビア語に翻訳するための体系的な努力が払われました。その中には,医学,音楽,幾何学,算術,哲学,物理学,錬金術などの書物が含まれます。

西暦754年から775年にかけて支配したカリフであるマンスールは,ビザンティンの宮廷に大使を派遣し,ギリシャ数学に関する書物を入手させました。後のカリフであるマームーン(西暦813年から833年)もその例に倣い,ギリシャ語からアラビア語への翻訳を推進し,その流れは200年余り続きました。結果として,10世紀の終わりには,当時入手できたギリシャの哲学や科学に関する書物はほぼすべてアラビア語に翻訳されていました。しかも,アラブ人の学者たちはただ翻訳しただけでなく,独自の貢献もしたのです。

アラブ人による貢献

アラビア語の翻訳者たちの多くは正確に,また驚異的な速さで翻訳をしました。そのため,歴史家の中には翻訳者たちは扱う論題に精通していたに違いないと考える人もいます。さらに言えば,かなりの学者が翻訳した書物を,自分が行なう研究の発展の足掛かりとしました。
例えば,シリア人のキリスト教徒フナイン・イブン・イスハーク(西暦808年から873年)は,医師また翻訳者で,視覚の仕組みを解明することに大きく貢献しました。その著作の一つは,眼の正確な解剖図を載せ,アラブ世界でもヨーロッパでも眼科学の標準的な文献となりました。西洋諸国でアビセンナとして知られている,哲学者で医師でもあるイブン・シーナー(西暦980年から1037年)は,倫理学,論理学,医学,形而上学など幅広い論題について何十冊もの書籍を執筆しました。その一つである,広範な概説を収めた「医学典範」は,当時の医学知識を集めたもので,ガレノスやアリストテレスなどギリシャの著名な思想家の考えが収められていました。「医学典範」は400年にもわたって医学の標準的な教科書となりました。

アラビア語

アラブ人の研究者たちは,科学的進歩の根底となる実験科学の手法を採用しました。そのため,彼らは地球の円周を計算し直し,地理学に関するプトレマイオスの著作の内容を修正しました。「アリストテレスによる情報さえも鵜呑みにしなかった」と,歴史家のポール・ランディは述べています。

学問上の発展は,貯水池,水道橋,水車の建設など多くの実用的な面に反映され,その中には今も残っているものがあります。農業,植物学,農学に関する新たな書物によって,地域ごとに最も収量の多い作物を選べるようになり,生産が大幅に伸びました。

西暦805年,カリフのハールーン・アッラシードは病院を設立しました。広大な帝国の中で初めて建てられた病院です。やがて,彼の支配下にある主要都市すべてに病院ができました。

各地に学問の拠点が置かれる

アラブ世界のかなりの都市には,図書館や専門的な学問研究の拠点が置かれました。バグダッドでは,カリフのマームーンがバイト・アルヒクマ(「知恵の館」を意味する)と呼ばれる翻訳と研究の機関を創設しました。そこには俸給を受けて働く学者たちがいました。カイロでいちばん大きな図書館には100万冊を超える蔵書があったとされています。一方,ウマイヤ朝支配下のスペインの首都コルドバには70の図書館があり,アラブ世界全域から学者や学生が集まってきていました。コルドバは優に2世紀以上にわたって学問の拠点として栄えました。

ペルシャではギリシャ数学とインド数学が混合しました。インドの数学者たちは,数字のゼロの用い方の体系を確立し,位取り記数法を考案しました。この記数法では,個々の数字はその位によって異なる値を示し,またゼロをどう表示するかによっても値が変わります。例えば,1という数字によって,1をも10をも100をもその先をも示すことができます。この体系のおかげで,「あらゆる計算法が簡略化されたばかりか,代数学が発展していった」と,ランディは書いています。アラブ人の学者たちはまた,幾何学,三角法,航海術を飛躍的に発展させました。

アラブ世界の科学や数学のこうした黄金時代は,当時の他の土地における学問的停滞と対照を成していました。同様の取り組みは中世ヨーロッパにおいてもなされていました。それはおもに修道院で行なわれ,古代の学者たちの作品を保存することを目的としたものでした。とはいえ,その取り組みによって生み出されたものは,アラブ世界で生み出されたものと比べるなら見劣りします。しかしながら,早くも10世紀初めに情勢は変化しはじめます。アラブ人の学者たちの翻訳した文献が少しずつ西洋諸国に流入するようになったのです。やがてこの流れは加速し,ヨーロッパ科学の復興へとつながります。

歴史を大局的に眺めると,現在の科学や関連した分野における学識を特定の国家や人々の功績とすることはできない,という点が明らかになります。今日の発展した文化圏の存在は,以前の幾つもの文化圏に負うところが大きいと言えるでしょう。それら先人たちは,調査研究を促進し,既成概念を再考し,新たな視点で物事を見るよう勧めたのです。

ウズベキスタンを訪ねる

ウズベキスタン

トランスオクサニア。

「川に挟まれた地」。タタール。トルキスタン。こうした様々な呼称が,現在のウズベキスタンを含む地域を指すのに使われてきました。ウズベキスタンとは,「ウズベク人の国」という意味です。ウズベキスタンの諸都市は,15世紀には,シルクロード(中国と地中海沿岸地域を結ぶ交易路網)を旅する商人たちに利用されていました。現在,ウズベキスタンの繊維業界で優位を占めているのは綿です。綿や羊毛や絹で織られた美しいじゅうたんも売られています。

ウズベキスタンの文化は,歴史を通じて,様々な民族の影響を受けてきました。名だたる征服者たちが強力な軍隊を率いてウズベキスタンの山地や砂漠を行軍しました。この地で最愛のロクサナと出会ったアレクサンドロス大王や,モンゴルから来たチンギス・ハン,この地域出身で,史上最大級の帝国を支配したティムール(別名タメルラン)などです。

 

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青いタイルで覆われたドームのある,壮麗で色鮮やかな歴史的建造物が,ウズベキスタンの現代の都会のあちらこちらに見られます。これらの建物の多くは,学校として使われています。

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シルクロード。この交易路網は,すでに西暦前には使われていました。また,西暦15世紀の終わりにインドへの海路が開かれるまでは活況を呈しており,世界の交易の中心を占めていました。シルクロードの一部は,現在のウズベキスタンに相当する地域を通っていました。
アラル海。世界で4番目に大きい湖だったアラル海は,そこに注ぐ川の水をかんがい用水として使った結果,消滅しつつあります。ウズベキスタンは,中央アジアの他の国々と協力して,問題の改善に取り組んでいます。

ウズベキスタンの文字の変遷。かつては様々な言語が話されていましたが,8世紀にイスラム教徒に征服された後は,アラビア文字が使われるようになりました。ソビエト連邦の一部になった後は,最初ローマ字が使われ,1930年代の終わりにはキリル文字が採用されました。1993年には,新しい法律によって,ローマ字を基にしたウズベク語のアルファベットが導入されました。

データ

  • 人口:3000万人
  • 首都:タシケント
  • 気候:おおむね乾燥しており,雨は少なく,湿度は低い
  • 国土:西には平野が広がっており,東には山地がある

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