イブン・バットゥータの見た世界

イブン・バットゥータの見た世界

それは1325年のことです。ある青年がモロッコのタンジールを出発します。以後の一連の旅によって,青年は当時知られていた世界のはるかかなたにまで足を運ぶことになります。その土地には,今のインド,インドネシア,シリア,タンザニア,トルコ,中国,ペルシャ,マリ,ロシア,それに全アラブ諸国が含まれています。青年の名はアブー・アブドゥッラー・イブン・バットゥータです。彼が旅した距離は約12万700㌔に及び,蒸気機関の発明前であることを考えると,まさに驚異的です。

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イブン・バットゥータはイスラムの旅行家,また近代以前の最大の旅行家と呼ばれています。その回想録は,30年近くに及んだ旅を終えて帰国してから記されたもので,14世紀の生活や文化,特に中世イスラム圏の生活の多くの面を明らかにしています。

メッカへの巡礼

イブン・バットゥータがタンジールを出発したのは,聖地を訪れ,ハッジ,すなわちメッカ巡礼を行なうためでした。それは,成人のイスラム教徒で,経済的・身体的に旅行の可能な人全員に義務として課されたものです。メッカはタンジールの東およそ4,800㌔にあります。多くの巡礼者に倣い,イブン・バットゥータも目的地までの安全を考え,キャラバン隊と共に移動しました。

父親がカーディー,つまりその土地の裁判官であったため,イブン・バットゥータもカーディーになるための教育を受けました。それはタンジールで受けられる最高の教育でした。旅仲間たちはこのことを知り,道中の争いごとを解決する裁判官になるよう彼に頼みました。

アレクサンドリア,カイロ,ナイル上流へ

キャラバン隊は北アフリカの沿岸を進んでエジプトに入ります。アレクサンドリアで,イブン・バットゥータは有名な灯台を目にします。古代世界の七不思議の一つとされたその灯台は,当時すでに一部が損壊していました。カイロについてはこう述べています。「見渡すかぎり無数の建物が広がり,美しさや壮麗さは類を見ず,都市に出入りする人が相まみえ,弱者も権力者も足を止め,人々の往来は波のうねりのようである」。この大都市で目にした宗教建造物,庭園,バザール,船,習慣を彼は大いに称賛しています。エジプトで聖職者や学者など有力者の庇護を求め,得ることができ,そうすることが彼の習慣となりました。

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カイロからはナイルをさかのぼって上エジプトに行きます。道中では宗教家から,さらには修道院,寄進で賄われた宿泊所や神学校などで,もてなしを受けます。それらは当時のイスラム圏の都市によく見られました。イブン・バットゥータが考えていたのは,砂漠を横断して紅海に出,海路アラビア西部に向かい,預言者ムハンマドのモスクのあるメディナに行き,そしてメッカに向かうことです。しかし,戦争で行く手を遮られ,カイロに戻ります。

長い回り道

メディナとメッカに行こうと心に決めていたイブン・バットゥータは,北のガザとヘブロンに行き,次いでアブラハム,イサク,ヤコブの埋葬地とされる場所を訪れます。エルサレムと市内の寺院“岩のドーム”に向かう途中,ベツレヘムに立ち寄ります。そこでは,クリスチャンであると言う人たちがイエスの生誕地をあがめる様子を目にします。

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次いでイブン・バットゥータは北のダマスカスに行き,著名なイスラム学者たちと共に学び,教師としての資格証書を取得します。その都市のウマイヤ・モスクについては,世界で「最も壮麗」であると述べています。地元のバザールでは宝飾品,布地,文具,書物,ガラス製品が売られ,公証人たちの区画では,「立ち会いを行なう五,六人の証人と,カーディーから結婚式を執り行なう権限を与えられた人」が控えていました。ここダマスカスでイブン・バットゥータも結婚しました。しかしその花嫁については,他の大勢の妻やめかけと同様,回想録の中で手短に言及されているに過ぎません。

ダマスカスでイブン・バットゥータは,メッカへの巡礼者の一行に加わります。道中,一行は泉のそばで野営します。そこでは水を運ぶ人が,水牛の皮で大きな水溜めを作っていました。旅人は砂漠を横断する前に,その水溜めの水をラクダに飲ませ,皮袋に水を満たしました。ついに彼はメッカに到達します。これは7回に及ぶ巡礼のうち最初のものでした。ほとんどの巡礼者は,儀式を終えると故郷に戻ります。イブン・バットゥータは違いました。ある伝記作家が述べるとおり,「純然たる冒険旅行のため」バグダッドに向かいます。

もっと遠くの世界へ

当時のイスラムの中心都市バグダッドで,イブン・バットゥータは公衆浴場に感銘を受けます。こう書いています。「それぞれの浴場には多数の個室があり,どの個室にも隅にたらいが据え付けられ,二つの蛇口からそれぞれ湯と水が出る」。ある友好的な将軍の取り計らいで,イブン・バットゥータはスルタンであるアブー・サイードに謁見できました。スルタンとの面会を終えたイブン・バットゥータは,貴重な品々を授かります。それには馬1頭と礼服1着,またバグダッドの知事にあてた書簡が含まれていました。その書簡は,ラクダや物資の提供を要請するものでした。

次いでイブン・バットゥータは船で,東アフリカの海港であるモガディシュ,モンバサ,ザンジバルに向かいます。さらに,アラビアそしてペルシャ湾へと旅を続けます。後に彼は,道中に目にした人々や習慣や物について説明しています。ソマリアでは商人たちが歓待を受け,イエメンではビンロウジが使われココヤシが栽培され,ペルシャ湾では真珠が採取されていることなどです。それから,非常な大回りをしてインドを目指します。エジプト,シリア,アナトリア(トルコ)を通過し,黒海を横切り,カスピ海の北を周り,さらに今のカザフスタン,ウズベキスタン,アフガニスタン,パキスタンなどの地域へと南下しました。

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インドから中国へ

インドでイブン・バットゥータは,デリーのスルタンのために8年間カーディーを務めます。イブン・バットゥータが旅好きであることを知ったスルタンは,彼を中国のモンゴル皇帝トゴン・テムルへの大使として遣わします。到着時に進呈するよう託された贈り物の中には,「駿馬100頭,白人奴隷100人,踊り子や歌うたいのインド人女性100人,種々の衣1,200枚,金や銀の燭台や水盤,模様を織り込んだ絹の礼服,帽子,矢筒,刀剣,真珠をちりばめた手袋,宦官15人」が含まれていました。

南インドの港カリカットで,イブン・バットゥータはジャンクと呼ばれる大型商船を目にします。それらの船の行き先は,彼が目指していた中国でした。この船には多いもので12枚の帆があり,それらはすべて竹を編んで作られていました。船乗りは1,000人にもなり,水夫600人と兵士400人で構成されていました。水夫の家族も船内で生活し,「青物などの野菜やショウガを木製の容器で[栽培]して」いたと,彼は述べています。

ところが難船のため,イブン・バットゥータは中国への外交使節としての任務を果たせませんでした。代わりに彼は,モルディブでイスラム教徒の支配者に仕えるようになりました。その土地の習慣を外の世界に知らせたのは,イブン・バットゥータが初めてでした。やがて彼は中国に入ります。見た事柄の中には好印象を持つものもあれば,宗教的には反感を抱くものもありました。中国への言及がわずかしかないため,本当にそこまで行ったのかと疑う人たちもいます。もしかしたら中国南部の幾つかの港に到達しただけなのかもしれません。

帰郷の際の悲嘆

ほぼ20年ぶりにダマスカスに戻ったイブン・バットゥータは,家に残した息子が12年前に死んだことと,タンジールに住んでいた父親が15年前に死んだことを知ります。時は1348年で,中東では黒死病が猛威を振るっていました。事実イブン・バットゥータは,カイロで毎日2万1,000人が亡くなっていると伝えています。

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1年後,45歳になったこの旅行家はモロッコに戻り,母親が黒死病で数か月前に亡くなったことを知ります。彼は国を出発した時,21歳でした。24年に及ぶ旅行で,冒険への渇望は治まったのでしょうか。そうならなかったようです。彼は程なくスペインに向かいます。3年後には最後の旅に乗り出し,ニジェール川と,今のアフリカの国マリにあるトンブクトゥ(ティンブクトゥ)という都市に足を運びました。

回想録を記すよう任じられる

モロッコの都市フェスのスルタンは,イブン・バットゥータの旅について聞きます。それで,宮廷の娯楽のために旅行記を記すよう命じ,イブン・ジュザイイを筆記者として与えます。完成したアラビア語の旅行記は,それほど多く出回りませんでした。さらに,西洋諸語への翻訳は,ヨーロッパの学者たちが19世紀にこの物語を再発見してようやく開始されました。

筆記者のイブン・ジュザイイはこの回想録を,イブン・バットゥータの口述をまとめたものとしていますが,内容を幾らか脚色したようです。そうではあっても,この作品はイブン・バットゥータの訪れた土地,とりわけ中世イスラム圏の生活,商業,慣習,宗教,政治について,他からは得られない情報を伝えているのです。

参考資料

ウェールズの羊牧場での1年

世界では10億頭を超える羊が飼育されています。羊飼いの仕事には,どの季節にも,その季節ならではの苦労があります。ウェールズの山地にある羊牧場で働くガーウィン,イオアン,リーアンは,そこでどんな仕事が行なわれているかを説明してくれます。この地方では,人間一人に対して羊が3頭近くいます。

ウェールズの羊

ウェールズ羊牧場の春 ― 出産

春になると,昼も夜も雌羊の出産を助けます。
ガーウィン: 「出産の時期は1年でいちばんきつい時ですが,最も喜びの多い時でもあります。よく訓練された犬の助けは欠かせません。難産の場合,うちの犬は羊を優しく誘導し,わたしが出産を手伝えるようにしてくれます」。
イオアン: 「もう幾度となく出産を助けてきましたが,生まれたばかりの子羊を見るといつも胸が熱くなります」。

ウェールズ羊牧場の夏 ― 毛刈り

夏の仕事は,羊の毛を刈ることです。品種にもよりますが,1頭の毛の重さが10㌔にもなることがあります。一人で1日250頭の羊の毛を刈ることもあります。

リーアン: 「まずわたしは毛刈りの下準備として,しっぽの周りの汚れた毛を取り除きます。慣れた職人なら,電動バリカンを使って全部の毛を2分で刈り,それは1枚の羊毛になります。わたしは羊毛の汚れを落とし,ていねいに巻いて大袋に入れます。こうして出荷されます」。
羊飼いはこの時期,草を刈って良い干し草を作れるよう,低地で2週間は雨が降らないことを願います。干し草は,冬のあいだ羊の餌になります。家族や友人が助け合って干し草を移動させます。

イオアン: 「草の刈り入れが終わった翌朝,牧場内を歩くのは,何ともすがすがしいひとときです」。

ウェールズ羊牧場の秋 ― 羊を集める

羊飼いは,雌羊と子羊を分けるため,高地に放していた群れを集めます。

イオアン: 「垣根や石垣が巡らされていない山もありますが,羊が迷子になったり別の人の土地に入り込んだりすることは滅多にありません。わたしたちの牧場の母羊は,牧場の境界線を知っています。羊は,母親や羊飼いから境界を教わり,それを雌の子羊に伝えてゆきます。とはいえ,少数ながら迷い出る羊もいて,何時間も,時には何日もかけて探します」。

牧場主は,雄羊を吟味して購入し,雌羊にあてがいます。雌羊25頭から50頭ごとに1匹の雄羊が必要です。これは群れの将来を考えての投資とみなされます。

種付けが終わってから10週間から12週間後には,超音波スキャナーを使ってどの雌羊が妊娠しているかを確かめ,春にそれぞれ何頭の子羊を産むかを見極めます。妊娠していない雌羊は売られます。おなかに1頭の子羊がいる雌たちは一緒にされます。双子や三つ子のいる雌には特に気を配り,餌も余分に与えます。

ウェールズ

ウェールズ羊牧場の冬 ― 餌やり

日照時間の短い冬,妊娠した雌羊への餌やりは,羊の世話の中でも多くの時間を占めるものです。天気が良くても悪くても,羊飼いはいつも羊のそばにいて,地面が厚い霜で覆われる時にも十分の餌があるように取り計らいます。

ガーウィン: 「この時期に羊は,餌を得るにも無事に冬を乗り切るにも,羊飼いの助けを必要とします」。

リーアン: 「一年じゅう戸外で野生の生き物や草花の四季折々の変化を目にできるのは素晴らしいことです。そのような時,羊の飼育という大好きな仕事をしてきて本当に良かったと感じます」。

ウェールズの概要

ウェールズは、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国を構成する4つの「国」のひとつである。ウェールズはグレートブリテン島の南西に位置し、南にブリストル海峡、東にイングランド、西と北にはアイリッシュ海が存在する。

ウェールズ建物

 

  • ウェールズの首都:カーディフ
  • ウェールズの言語:英語
  • ウェールズの通貨:1 ユーロ = 132.8 円 (2015年現在)
  • ウェールズの物価:水500mlで1ユーロくらい。缶ビール0.9~1.8ユーロ。レストラン(一皿料理)10ユーロくらい。サンドイッチ3~4ユーロ。安宿ドミトリ含む12~20ユーロ。
  • ウェールズの治安:現在 危険情報は出ていません
  • ウェールズのフライト情報:直通なし:ロンドン経由だと最低14時間
  • ウェールズの水:水道水は飲めるが心配な人は水を買おう。
  • ウェールズのチップの有無:基本不要。気持ちでチップ。
  • ウェールズのビザ:3ヶ月以内の観光なら不要。パスポート残存期間は6ヶ月以上。
  • ウェールズの電圧とコンセント:220V/240VでBF型(C型)

ウェールズのチケット情報

東京発ウェールズ カーディフ行きの航空券 88,100円から
大阪発ウェールズ カーディフ行きの航空券 最安83,100円から
名古屋発ウェールズ カーディフ行きの航空券 最安62,500円から
福岡発ウェールズ カーディフ行きの航空券 最安62,500円から

ウェールズの時差と現在時刻

・タイムゾーンの名称:GMT グリニッジ標準時
・協定世界時との時差:UTC+0
・日本時間との時差:JST-9

現在の日本とウェールズとの時差は、9時間です。日本の方が、9時間進んでいます。

ウェールズの天気

ウェールズのおすすめ情報・観光・おみやげ

テレジーン要塞 ― 防げなかった悲劇

テレジーン

中央ヨーロッパの都市ドレスデンとプラハの中間点にテレージエンシュタット(テレジーン)という町があります。この町には,堅固な塁壁に囲まれた巨大な要塞が建っています。この要塞は,外国軍の侵入を防ぎ,周辺地域の住民を保護する目的で建設されました。

テレジーンは,チェコ北部の都市。ナチス・ドイツの強制収容所があった。現在,テレジーンの人口は3千人ほどである。 18世紀後半に,エルベ川とエーガー川の合流点に建設された要塞に由来する。

要塞の建設を命じたのは,ドイツ王で神聖ローマ皇帝のヨーゼフ2世です。皇帝は,土地測量の際にも1780年後半に礎石が据えられた時にも立ち会いました。この要塞都市は,ヨーゼフ2世の母親である女帝マリア・テレジアをたたえて建てられ,ドイツ語で「テレジアの町」を意味するテレージエンシュタットという名が付けられました。 多い時には1万4,000人の労働者が建設に従事したと言われ,作業の大半は4年以内に終わりました。

1784年に完成した時,テレジーンはオーストリアのハプスブルク家領内で最大の要塞であり,当時としては最先端の工学技術を用いて建設されました。とはいえ,要塞が完成する以前に,軍事戦略のスタイルは大きく変化していたのです。

侵略軍はもはや城を包囲攻撃するのではなく,周辺の村々を攻囲して略奪を行なうようになっていました。そのため,1888年までにテレジーンは軍事要塞としての役割を失い,外側の広い塁壁上部には歩道とベンチのある美しい公園が作られました。

チェコの町並みの写真

テレジーン要塞と町

テレジーンは要塞都市として設計されました。巨大な塁壁の内側には,兵士とその家族や一般市民のための住まいがありました。

その大要塞の隣には,小要塞が軍事刑務所として建てられました。1800年代の初めには,オーストリア帝国の反政府主義者たちが収監されていました。それから約100年後,1914年にサラエボで起きたフランツ・フェルディナント大公の暗殺事件に関与した若者たちも投獄されました。若者たちは20歳未満だったため死刑は免れましたが,彼らの大半は程なくして獄死しました。暗殺犯のガブリロ・プリンツィプも,まだ第一次世界大戦がたけなわだった頃にここで亡くなりました。

小要塞はオーストリア‐ハンガリー帝国内で悪名高い刑務所の一つでした。多くの場合,囚人は重い足かせを付けられ,寒くてじめじめした地下牢に入れられました。とはいえ第二次世界大戦中,この要塞はもっと恐ろしい目的のために使われます。

“保養地テレジーン”の実態

ナチスは,現在はチェコ共和国領となっている地域に侵攻し,そこを占領しました。そして1941年,ユダヤ人を大要塞に連れて来るようになります。テレージエンシュタットの町は,外界から隔絶されたユダヤ人のゲットーに変えられました。ナチスは,ユダヤ人と非ユダヤ人の衝突を避けるには人種隔離が必要だと主張していました。この町は表向きにはユダヤ人が治療を受けられる保養地でした。しかし実際には,ナチスはユダヤ人の絶滅をもくろんでいたのです。

ヨーロッパ東部にはナチスの絶滅収容所があり,ユダヤ人はテレージエンシュタットなどからそこへ徐々に移送され,殺されてゆきました。 そのような収容所の存在は1930年代半ばから広く知られていたものの,ナチスは単なる矯正施設に過ぎないと宣伝していました。ところが,収容所の劣悪な環境に関する報告が増えてゆき,ナチスの高官たちは国際社会に対して釈明を求められました。そのため,ある計画を立てます。どんな計画でしょうか。

第二次世界大戦中の1944年と1945年に,国際赤十字社の代表団が大要塞の視察に招かれました。要塞内の様子をじかに見るためです。しかし,ナチスはこの要塞を保養地に見せかけるため,事前に大々的な美化を行ないました。

区画番号の代わりに,通りにはしゃれた名前が付けられました。偽の銀行,幼稚園,店が作られ,ゲットーの中心部にはカフェもオープンしました。家の正面は修理され,中央公園には植物や木が植えられ,新設された会場ではコンサートが開かれました。

赤十字の視察団はガイド付きツアーに参加し,ユダヤ人の“自治政府”の代表者たちとの面会も許されました。とはいえ,その代表者たちは慎重に選ばれたユダヤ人の住民であり,質問されてもナチスに教えられたとおりのことを答えるよう練習していたのです。二度の視察ツアーで,赤十字の代表団はすっかりだまされてしまいました。代表団は誤った報告をし,テレージエンシュタットはごく普通のユダヤ人の町で,住民は行き届いた世話を受けている,と述べています。赤十字の代表団が去った後も,ゲットーの壁の内側に住むユダヤ人は引き続き苦しみ,飢え,亡くなってゆきました。第二次大戦が終わった時まで生き延びていた人たちは,ごくわずかでした。

バティック ― インドネシアの誇る美しい布

バティック

バティックはかなり昔からありますが,決して時代後れではありません。華やかなパーティーに出席する人も,市場で働く人も身に着けます。色とりどりで美しく,実に様々な種類があります。では,バティックとはどんな布で,どのように作られるのでしょうか。どこで生まれ,現在どのように使われていますか。

バティックは長い歴史を持つ布です。独特なろうけつ染めの技術で作られ,インドネシアの生活や文化に欠かせないものとなっています。似たような手法で作られる布が世界各地に見られます。

バティック染料とろうの共演

バティックの職人は,小さな銅製の道具を使い,溶かしたろうで布に凝った模様を描きます。ろうが乾くと,布を染めます。ろうを塗った部分は染まらず,布本来の色が保たれます。多くの場合,様々な色の染料を用いてこの作業を繰り返し,色鮮やかな模様が出来上がります。
19世紀半ばには,ろうを塗るのに銅製のスタンプが使われるようになりました。手で描くより速く,全く同じ柄の布を作ることができたからです。20世紀になると,スクリーン印刷で模様をプリントしたバティックが工場で生産されるようになります。今でも手作りのものを買うことはできますが,現在出回っているバティックの大半は工場でプリントされたものです。
布は大抵,木綿か絹です。染料は,インドネシアで取れる葉,木,樹皮,香辛料などから作られますが,合成染料も使われます。ろうが用いられるようになる前は,野菜のペーストや動物の脂肪や泥で模様が描かれました。現在は合成ろうが一般的ですが,石ろうと蜜ろうを混ぜたものもまだ使われています。

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バティック古くても人気

バティックがいつどこで初めて作られたかはよく分かっていません。中国では,西暦6世紀頃のものと思われる端切れが見つかっています。バティックの製法がいつインドネシアで広まったのかは定かではありませんが,遅くとも17世紀には他国との間でバティックの交易が行なわれていたようです。

近年,バティックの人気は高まり,インドネシアのシンボルとして知られるようになっています。2009年,バティックのインドネシアにおける長い歴史と,文化に及ぼした影響が認められ,ユネスコにより「人類の無形文化遺産」として登録されました。

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バティックを着こなす

バティックには伝統的な着方,折り方,作り方が幾通りもあり,各地の信条や迷信の影響が見られます。インドネシアの多くの州には,それぞれ独自の色遣いやモチーフがあります。例えば,ジャワ島の北岸部のバティックは色鮮やかで,しばしば花や鳥などの動物がモチーフになっています。一方,ジャワ島中央部のバティックは比較的単調な色合いで,ほとんどが幾何学模様のものです。バティックの柄は,3,000種類にも上ります。

バティックの伝統的な衣類の一つは,スレンダンです。肩に掛けるショールのようなもので,女性が身に着けます。赤ちゃんや,市場で買った品物をくるんで運ぶこともよくあります。暑い日には,頭を覆うのにも使えます。

男性はイケット・クパラという伝統的な頭巾を着けます。正方形のバティック布を,ターバンのように頭に巻くのです。正装として身に着けられることが少なくありません。

よく着られる別のバティックの衣類は,サロンです。体に巻く長方形の布で,両端を縫い合わせて筒状になっている場合もあります。大抵,ゆったりとしたスカートのように腰に巻きます。男性も女性も身に着けます。

バティック布は,カジュアルなズボンから豪華なドレスまで,ありとあらゆる服の素材になっています。それだけでなく,絵,壁掛け,テーブルクロス,ベッドカバーとしても使われています。インドネシアの市場を歩くと,バティック柄のバッグ,サンダル,ランプシェード,はたまたノートパソコンのカバーまで見つかるかもしれません。多彩な用途を持つこの美しい布は,これからも人々を魅了し続けることでしょう。

バティック商品

カフカス山脈 ― 多くの言語が話される土地

カフカス山脈

次のような場所にいるところを思い描いてください。そこはスペインほどの大きさの地域で,ほとんどが山岳地です。驚くべきことに,その地域には何十もの民族が住んでいて,それぞれの言語を持っています。場所によっては,隣接する村の人たちでも互いに言葉が通じません。この土地について知った中世の地理学者たちも,やはり驚きを経験したに違いありません。その一人はこの地方,すなわちカフカス(コーカサス)地方のことを,「多くの言語が話される土地」と描写しました。

黒海とカスピ海の間に連なるカフカス山脈は,大陸や文明の接点となっています。そのため,この地方には長い歴史があり,豊かな文化が根づいています。住民はお年寄りを敬い,踊りを愛し,訪れる人を温かくもてなします。ですが,カフカス地方を訪れる人に最も強い印象を与えるのは,民族や言語の多様性です。実際,ヨーロッパでは同じほどの面積を占める地方で,これほど多くの言語が話される場所はほかにありません。

コーカサス,またはカフカース,カフカスは,黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と,それを取り囲む低地からなる面積約44万km²の地域です。

カフカス山脈

カフカスの著しい多様性

西暦前5世紀に,ギリシャの歴史家ヘロドトスは,「カフカスにはありとあらゆる民族が住んでいる」と伝えています。西暦1世紀の初めごろ,ギリシャの別の歴史家ストラボンは,この地方の70の種族に触れています。種族ごとに言語が異なり,人々は黒海沿岸の町ディオスクリアで商売をするようになりました。そこは現在,スフミとして知られています。数十年後,ローマの学者である大プリニウスは,ローマ人がディオスクリアで商売をするには130人もの通訳が必要だと書きました。

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現在でも,カフカス地方には50以上の民族が住んでいます。それぞれが独特の習慣を持ち,その民族ならではの衣服や芸術や建物に誇りを抱いています。この地方で話されている言語は少なくとも37を数えます。数百万人の話す言語もあれば,特定の村でしか話されない言語もあります。言語の違いが最も著しいのはロシアのダゲスタン共和国で,30ほどの民族がそこに住んでいます。それらすべての言語の厳密な関連や,他の言語グループとの関連は,今も定かではありません。

カフカス諸語は文字も発音もさまざま

カフカス諸語ではさまざまな正書法が用いられています。アルメニア語とグルジア語には,独自のアルファベットがあります。さらに,キリル文字の表記法を採用している言語もあれば,特殊なラテン文字を採用する言語もあります。

北西カフカス諸語では,世界で類を見ないほど多くの子音が用いられ,母音はわずかしか使われていません。ある百科事典によれば,それらの言語で子音は,「口や喉の考え得るあらゆる動きを駆使して」発声されます。カフカス諸語の一つウビフ語は,最後の話者が1992年に亡くなりました。この言語には,子音が80はあり,母音はおそらく二つしかなかったと言われています。

ある伝説に,トルコのスルタンの話が出てきます。スルタンは,ウビフ語を習わせるため一人の学者をカフカス地方に遣わします。戻った学者は,その言語を覚えられなかった理由を説明するため,小石の詰まった小さな袋を取り出します。そして,スルタンの前で小石を一気に大理石の床に落とし,こう言いました。「今の音をお聞きになりましたか。外国人には,ウビフ語はそのように聞こえるのです」。

アプリコット – アルメニアの金色の果物

アルメニアの金色の果物

アプリコット(杏)は,アジアやヨーロッパで何千年も前から栽培されてきました。ヨーロッパでは,その果物の原産地はアルメニアであると考えられており,そのため“アルメニアのりんご”と呼ばれるようになりました。

現在アルメニアで栽培されているアプリコットは50種ほどに上ります。旬の時期は6月の半ばから8月の終わりまでです。火山灰を豊富に含んだ土や長い日照時間のため,この国のアプリコットにはほかでは味わえない甘さがあります。世界でもとりわけおいしい果物と考える人がいるほどです。

多く見られる種類は,小さなプラムほどの大きさで,色は淡い金色から濃いオレンジ色までさまざまです。ビロードのような果皮としっかりした果肉が特徴で,果汁は多くなく,味は甘みの強いものも酸味の強いものもあります。よく栽培されている品種の味は,桃とプラムの中間と表現する人もいます。

アプリコット

ブラック・アプリコットなるものも栽培されていますが,それは実際はプラムとの交配種で,純粋なアプリコットではありません。うぶ毛のある皮は濃い赤紫で,中の実は黄色です。

アプリコットの木は,葉が出る前に花が咲き,よい香りのする白い花は自家受粉します。その花は,桃やプラムやサクランボの花とよく似ています。木は,冬は寒く夏は温暖な土地でよく育ちます。花を咲かせ実をつけるには,低温の続く時期が必要で,アルメニアの気候はその条件にぴったりです。

生のアプリコットは健康を増進させます。例えば,β<ベータ>‐カロテンビタミンCが豊富です。多くの人にとっては,干したもののほうがなじみ深いでしょう。生の実はとても痛みやすいこともあり,国によってはドライ・アプリコットのほうが多く出回っています。

ドライ・アプリコット

うれしいことに,ドライ・アプリコットも栄養価が高く,繊維や鉄分を多く含んでいます。この果実はまた,ジャムやジュースにしたり,アプリコット・ブランデーを作るのに用いられたりします。

アプリコットの木からは,美しい彫り物も作られます。デュデュックと呼ばれる木管楽器はアルメニアでよく使われ,“杏の木の笛”と呼ばれることもあります。首都エレバンの市内や周辺の店や市場では,杏の木のすてきな手彫りが店頭に並び,観光客の手ごろなおみやげです。

お住まいの土地で生のアプリコットが手に入るなら,ぜひ味わってみてください。この金色の果物のおいしさは,きっと期待を裏切らないでしょう。

アプリコットを使った商品

アルプホルン 木が奏でる音楽

スイス・アルプスに住む人々は,何世紀にもわたって,コミュニケーションを取るためにユニークな道具を使ってきました。アルプホルンです。アルペンホルンとも呼ばれるこの楽器は,扱いやすい道具に見えないかもしれません。物によっては,長さが演奏者の背丈の2倍もあるからです。しかし実際には,手で運ぶことができますし,幾つかのパーツに分解してケースに収納できるタイプもあります。アルプホルンの音は,アルプスの深い渓谷を越えて10㌔先まで届くことがあります。

アルプホルン

アルプホルンを作る

伝統的に,山に生えるトウヒの木から作られるアルプホルンは,美しいアルプスの景色によくなじみ,この土地ならではの楽器と言えます。アルプスの急斜面には,自然の力によって根元が曲がった木が生えています。

アルプホルンアルプホルンを作るには,まず手ごろな木を選び,それを注意深く縦二つに割ります。それから特殊なのみを使って中をくりぬいていきますが,この作業だけで80時間もかかることがあります。次に,木の内側をやすりや紙やすりで滑らかにします。そして両方の木を接着剤で張り合わせ,カバノキの樹皮を裂いたものをしっかり巻きつけます。演奏する時にアルプホルンを支える木製のスタンドも取り付けます。最後に,ふさわしいマウスピースをはめて,ラッパ状の開口部に絵を描いたり彫刻を施したりし,全体に防水用のニスを塗って仕上げます。

アルプホルンの昔ながらの使い方

羊や牛を飼う人たちは代々,山の上の牧草地からアルプホルンを吹き,“みんな元気だよ”ということを麓にいる家族に知らせました。しかしアルプホルンはおもに,乳搾りのために牛を呼び集める時に使われました。牛は乳搾りの間,アルプホルンの心地よい音色を聞くとおとなしくしている,とスイスでは昔から考えられています。
冬の間,牛は麓の小屋に戻りました。牛飼いたちはよく町に出てアルプホルンを演奏し,人々から小銭をもらって収入の足しにしました。アルプホルンを吹いて人々を戦争に召集した時代もあります。

アルプホルン演奏

アルプホルンはどのようにして演奏するか

アルプホルンを吹くのは一見,簡単そうに見えるかもしれません。操作する指穴もキーもバルブもないからです。難しいのは,息の吹き込み方を調節して望みどおりの音を出すことです。
アルプホルンは12の自然倍音しか出ません。すべての音階の音は出ないものの,この楽器のために書かれた曲もあり,熟練した奏者の見事な演奏は人々の心を魅了します。

有名な作曲家の中には,管弦楽曲にアルプホルンのパートを含めた人もいます。例えば,ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの父親,レオポルト・モーツァルトは,アルプホルンと弦楽のための「シンフォニア・パストレッラ」(田園風シンフォニア)を書きました。ブラームスは,フルートとホルンを使ってスイスのアルプホルンの音を表現し,ベートーベンは「田園交響曲」にアルプホルンに似た音色を取り入れ,牧歌的な雰囲気を醸し出しました。

アルプホルンに関する最も古い記録は,1527年にスイスの聖ウルバヌス修道院で書かれた帳簿に残っています。500年近くたった今も,スイス・アルプスの広大な牧草地にアルプホルンの優しい音色が響きます。

参考資料

アイン・ジャールート – 歴史を変えた戦い

勇猛な騎馬軍がモンゴルから出撃し,降伏を拒む都市を次々と破壊してゆきます。1258年2月,モンゴル軍は攻撃の矛先をバグダッドに向け,城壁を突破します。その後1週間にわたって殺害と略奪が続きました。イスラム世界はモンゴル軍への恐怖に震え上がります。
モンゴル軍は西方に進撃し,1260年1月,バグダッドに続きシリアのアレッポを陥落させます。同年3月,ダマスカスも都市を明け渡し,降伏します。その後モンゴル軍は,ナブルス(古代シェケムの遺跡の近く)やガザなどパレスチナの都市も征服してゆきます。

パレスチナ

モンゴル軍の将軍フラグは,エジプトのスルタン(イスラム教徒の支配者)であるムザッファル・クトゥズに対して降伏を要求し,降伏しないなら悲惨な目に遭うだろう,と脅しました。モンゴル軍は兵力の点で,2万人のエジプト軍を15対1の割合で上回っていました。イスラムの歴史家ナジール・アフメド教授は,「イスラム世界は絶滅の危機に瀕していた」と述べています。クトゥズはどうするでしょうか。

クトゥズとマムルーク

クトゥズは,マムルークと呼ばれていたトルコ系奴隷の一人でした。マムルークは奴隷軍人として,エジプトのカイロに都を置くアイユーブ朝のスルタンに仕えていました。しかし1250年,それら奴隷軍人は反乱を起こしてアイユーブ朝を倒し,エジプトを支配し始めます。クトゥズも権力を握り,1259年にスルタンとなりました。クトゥズは百戦錬磨の戦士で,戦わずしてあきらめるような人ではありませんでしたが,モンゴル軍に対しては勝ち目がないかに見えました。しかしその後,歴史は意外な展開を見せます。

フラグのもとに,モンゴル帝国の大ハンであるモンケが亡くなった,という知らせが届きます。本国で権力争いが起きることを見越したフラグは,軍の大半を率いて撤退します。前線に残したのは1万人から2万人の兵士だけで,エジプト征服にはそれで十分だと考えました。クトゥズは,風向きが変わったことに気づきます。侵略軍を倒す絶好の機会と見たのです。

とはいえ,クトゥズ率いるエジプト軍とモンゴル軍の間のパレスチナ地域には,イスラム教徒の別の敵が来ていました。十字軍です。十字軍は聖地の奪回を目指してパレスチナに来ていたのです。クトゥズは,パレスチナでモンゴル軍と対決するために,十字軍から土地の通行許可と物資を購入する権利を得たいと考えました。十字軍はその要望を受け入れます。十字軍にとってクトゥズは,その地域からモンゴル軍を追い出してくれる唯一の望みだったからです。モンゴル軍は,イスラム教徒だけでなく十字軍にとっても悩みの種だったのです。
こうして,クトゥズのマムルーク軍とモンゴル軍との決戦の舞台が整います。

パレスチナのアイン・ジャールート

1260年9月,エスドラエロン平原のアイン・ジャールートで,マムルーク軍とモンゴル軍の戦いの火ぶたが切られます。アイン・ジャールートは古代都市メギドの近くにあったと考えられています。

歴史家ラシード・アッディーンによると,マムルーク軍はメギドに伏兵を置いてモンゴル軍を待ち伏せしました。クトゥズは騎兵隊の大半を平原周囲の丘陵地に潜ませ,小部隊に前進を命じてモンゴル軍を挑発させます。モンゴル軍は目の前にいるのがマムルークの全軍と見て突撃します。そこへクトゥズが奇襲攻撃を仕掛けたのです。隠れていた騎兵隊が突如現われて,モンゴル軍に側面から襲い掛かり,ついに侵入軍は撃ち破られました。

モンゴル軍の敗北は,それまで43年間の西方遠征において初めてのことでした。アイン・ジャールートの戦いは,参戦した兵士が比較的少数だったとはいえ,歴史上極めて重要な戦いとされています。イスラム教徒は絶滅の危機を免れ,無敵のモンゴル軍というイメージは打ち砕かれ,マムルーク軍は領地を奪還できたのです。

アイン・ジャールートの余波

モンゴル軍はその後も何度かシリアとパレスチナの地域に戻って来ましたが,エジプトを脅かすことは二度とありませんでした。フラグの子孫はペルシャに定住してイスラム教に改宗し,後にイスラム文化の擁護者となりました。その支配域はペルシャのイル・ハン国(ハンに属する国)として知られるようになりました。

しかし勝利の喜びもつかの間,クトゥズはライバルたちに殺されてしまいます。そして,ライバルの一人であったバイバルス1世が,エジプトとシリアを支配する王朝の初代スルタンになりました。多くの人は,バイバルス1世をマムルーク朝の実質的な創始者とみなしています。この王朝は経済的に繁栄し,1517年までの2世紀半のあいだ続きました。

その250年余りの期間中に,マムルーク朝は聖地から十字軍を排除し,貿易と産業を促進しました。また,芸術を奨励し,病院やモスクや学校を建設しました。マムルーク朝の支配のもと,エジプトはイスラム世界の中心地として栄えました。

アイン・ジャールートの戦いは,中東地域に影響を与えただけでなく,西洋文明の流れを方向付けたとも言えます。サウジ・アラムコ・ワールド誌(英語)はこう述べています。「もしモンゴル軍がエジプトを征服していたなら,フラグが戻って来た暁には,北アフリカを横断してジブラルタル海峡に達することができたかもしれない」。当時,モンゴル軍はすでにポーランドにも侵攻していたため,ヨーロッパは大規模な挟み撃ちに遭ったことでしょう。

同誌はこう続けます。「そのような状況で,ヨーロッパのルネサンスは起きただろうか。今日の世界は,大きく異なる様相を呈していたことだろう」。

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アラビア語が学術語として発展

アラビア語が学術語として発展したいきさつ

アラビア語は何世紀にもわたって,世界の学術語として主要な位置を占めていました。西暦8世紀以降,中東の諸都市に住むアラビア語を用いる学者たちは,科学や哲学の書物の翻訳や訂正に着手しました。扱った書物はプトレマイオスやアリストテレスの時代にまでさかのぼります。アラビア語を話す学者たちはそのようにして,昔の思想家の作品を保存し,文献として充実させたのです。

アラビア語

さまざまな概念の融合する場所

西暦7世紀から8世紀にかけて,中東では新たに二つの王朝が権力を握りました。最初はウマイヤ朝で,次がアッバース朝です。これらの王朝の版図に含まれるアラビア,小アジア,エジプト,パレスチナ,ペルシャ,イラクは,ギリシャとインド双方の影響を受けていました。そのため,王朝の新しい支配者たちは,それまでに蓄積された豊富な知識に接することができました。アッバース朝は新しい首都バグダッドを建設し,そこはさまざまな概念の融合する場所となりました。

その都でアラブ人は,アルメニア人,インド人,ギリシャ人,コプト人,中国人,トルコ人,ペルシャ人,ベルベル人,ユダヤ人,さらにはソグド人と交流しました。ソグド人は,中央アジアにあるオクサス川(現在のアム・ダリヤ川)の東方の住民です。人々は一緒に種々の学問を研究し,議論をたたかわせ,蓄えられた幅広い学識の相互交流を図りました。

アラビア

バグダッドのアッバース朝の支配者たちは,才能ある識者たちに,どこの出身であるかを問わず帝国の知的発展に貢献するよう呼びかけました。幅広い論題に関する膨大な数の図書を収集してアラビア語に翻訳するための体系的な努力が払われました。その中には,医学,音楽,幾何学,算術,哲学,物理学,錬金術などの書物が含まれます。

西暦754年から775年にかけて支配したカリフであるマンスールは,ビザンティンの宮廷に大使を派遣し,ギリシャ数学に関する書物を入手させました。後のカリフであるマームーン(西暦813年から833年)もその例に倣い,ギリシャ語からアラビア語への翻訳を推進し,その流れは200年余り続きました。結果として,10世紀の終わりには,当時入手できたギリシャの哲学や科学に関する書物はほぼすべてアラビア語に翻訳されていました。しかも,アラブ人の学者たちはただ翻訳しただけでなく,独自の貢献もしたのです。

アラブ人による貢献

アラビア語の翻訳者たちの多くは正確に,また驚異的な速さで翻訳をしました。そのため,歴史家の中には翻訳者たちは扱う論題に精通していたに違いないと考える人もいます。さらに言えば,かなりの学者が翻訳した書物を,自分が行なう研究の発展の足掛かりとしました。
例えば,シリア人のキリスト教徒フナイン・イブン・イスハーク(西暦808年から873年)は,医師また翻訳者で,視覚の仕組みを解明することに大きく貢献しました。その著作の一つは,眼の正確な解剖図を載せ,アラブ世界でもヨーロッパでも眼科学の標準的な文献となりました。西洋諸国でアビセンナとして知られている,哲学者で医師でもあるイブン・シーナー(西暦980年から1037年)は,倫理学,論理学,医学,形而上学など幅広い論題について何十冊もの書籍を執筆しました。その一つである,広範な概説を収めた「医学典範」は,当時の医学知識を集めたもので,ガレノスやアリストテレスなどギリシャの著名な思想家の考えが収められていました。「医学典範」は400年にもわたって医学の標準的な教科書となりました。

アラビア語

アラブ人の研究者たちは,科学的進歩の根底となる実験科学の手法を採用しました。そのため,彼らは地球の円周を計算し直し,地理学に関するプトレマイオスの著作の内容を修正しました。「アリストテレスによる情報さえも鵜呑みにしなかった」と,歴史家のポール・ランディは述べています。

学問上の発展は,貯水池,水道橋,水車の建設など多くの実用的な面に反映され,その中には今も残っているものがあります。農業,植物学,農学に関する新たな書物によって,地域ごとに最も収量の多い作物を選べるようになり,生産が大幅に伸びました。

西暦805年,カリフのハールーン・アッラシードは病院を設立しました。広大な帝国の中で初めて建てられた病院です。やがて,彼の支配下にある主要都市すべてに病院ができました。

各地に学問の拠点が置かれる

アラブ世界のかなりの都市には,図書館や専門的な学問研究の拠点が置かれました。バグダッドでは,カリフのマームーンがバイト・アルヒクマ(「知恵の館」を意味する)と呼ばれる翻訳と研究の機関を創設しました。そこには俸給を受けて働く学者たちがいました。カイロでいちばん大きな図書館には100万冊を超える蔵書があったとされています。一方,ウマイヤ朝支配下のスペインの首都コルドバには70の図書館があり,アラブ世界全域から学者や学生が集まってきていました。コルドバは優に2世紀以上にわたって学問の拠点として栄えました。

ペルシャではギリシャ数学とインド数学が混合しました。インドの数学者たちは,数字のゼロの用い方の体系を確立し,位取り記数法を考案しました。この記数法では,個々の数字はその位によって異なる値を示し,またゼロをどう表示するかによっても値が変わります。例えば,1という数字によって,1をも10をも100をもその先をも示すことができます。この体系のおかげで,「あらゆる計算法が簡略化されたばかりか,代数学が発展していった」と,ランディは書いています。アラブ人の学者たちはまた,幾何学,三角法,航海術を飛躍的に発展させました。

アラブ世界の科学や数学のこうした黄金時代は,当時の他の土地における学問的停滞と対照を成していました。同様の取り組みは中世ヨーロッパにおいてもなされていました。それはおもに修道院で行なわれ,古代の学者たちの作品を保存することを目的としたものでした。とはいえ,その取り組みによって生み出されたものは,アラブ世界で生み出されたものと比べるなら見劣りします。しかしながら,早くも10世紀初めに情勢は変化しはじめます。アラブ人の学者たちの翻訳した文献が少しずつ西洋諸国に流入するようになったのです。やがてこの流れは加速し,ヨーロッパ科学の復興へとつながります。

歴史を大局的に眺めると,現在の科学や関連した分野における学識を特定の国家や人々の功績とすることはできない,という点が明らかになります。今日の発展した文化圏の存在は,以前の幾つもの文化圏に負うところが大きいと言えるでしょう。それら先人たちは,調査研究を促進し,既成概念を再考し,新たな視点で物事を見るよう勧めたのです。

ドミニカ共和国を訪ねる

クリストファー・コロンブスは若くして船乗りになり,その結果,今日では西インド諸島として知られている島々を発見しました。1492年12月,コロンブスの乗った主要な船,サンタマリア号は,エスパニョーラ島北岸の浅瀬に乗り上げました。その島は今日,ヒスパニオラ島という名で知られており,ハイチとドミニカ共和国から成っています。コロンブスはそこにヨーロッパ人初の居留地,つまり即製のとりでを設営し,ラ・ナビダドと命名しました。この島は,コロンブスのその後の探検のための基地になりました。

ドミニカビーチ夕暮れ

コロンブスはその島に,顔立ちの整った,疑いを知らない,人をよくもてなす人々,すなわちタイノ族インディオが住んでいることを発見しました。当時,タイノ族の人口は,およそ10万人でした。ところが,おもに金を見つけることに関心を抱いていたその侵略者たちによって酷使されたため,原住民の人口はどんどん減ってゆきました。タイノ族インディオは,1570年にはわずか500人しか残っていなかったと言われています。

ドミニカビーチ女性

今日,ドミニカ共和国には種族や皮膚の色の違う多種多様な人々が住んでいます。それらの人の先祖がここに移住したのです。そうではあっても,人々はタイノ族の立派な特性を数多く受け継いでいるようです。基本的には,友好的でおおらかな人たちです。産物には,砂糖きび,コーヒー,ココア,それにパパイヤ,バナナ,マンゴ,パイナップルのような果物もあります。

ドミニカ共和国の人々は親しみ深く,にぎやかな会話を楽しげに始めます。人々は手振りや顔の表情だけではなくて体全体で身振りを表わします。ドミニカにはプロテスタント信者が少なくありませんが,15世紀にスペインからヒスパニオラ島へ来たヨーロッパ人の移民たちがそうであったように,大半の人々はローマ・カトリック信者です。

ドミニカビーチ

フロリダの東960㌔,キューバとプエルトリコの島々の中間にヒスパニオラ島というカリブ海の島が横たわっています。その島の東側3分の2はドミニカ共和国によって占められています。その土地は水が豊富で農耕地に向いています。

ドミニカ共和国の概要

ドミニカの国土

ドミニカ共和国はイスパニオラ島のおよそ3分の2の面積を占め,残りの3分の1はハイチが占めています。国土は,熱帯雨林や,そびえ立つ山々,マングローブの生える沼地,砂漠など,景観に富んでいます。国の最高峰は,標高3175㍍のドゥアルテ山です。海岸線は美しい白浜がどこまでも続き,内陸部はシバオ谷などの肥沃な谷があります。

ドミニカ住民

住民大半の住民はヨーロッパ人とアフリカ人の混血です。ほかの人種も少数ながらいますが,最も多いのがハイチ系の人々です。

ドミニカ言語

公用語はスペイン語です。

ドミニカの気候

温暖な熱帯性気候で,年間平均気温は25℃です。年間平均降水量は,北東部の山岳地では2000㍉を超え,乾燥した地域では750㍉ほどです。熱帯低気圧やハリケーンに襲われることもあります。

ドミニカの食

文化米,豆,野菜などが主食です。魚介類やトロピカル・フルーツ,唐辛子,揚げバナナも好まれています。こうした食材の幾つかが,昔ながらの人気料理ラ・バンデーラ・ドミニカーナ(ドミニカの国旗)に使われています。ドミニカの人々は,野球や音楽,それにダンス,特にメレンゲというダンスに情熱を抱いています。また,ドラム,フルート,マリンバと共に,ギターも非常に人気があります。

ドミニカ世界遺産

サント・ドミンゴ植民都市

新大陸の発見者コロンブスの築いた砦が発展した街。以後植民地都市建設の拠点となる。
コロンブス 遺言により 埋葬す この地にずっと 眠り続ける

ドミニカの概要

  • ドミニカの首都:サント・ドミンゴ
  • ドミニカの言語:スペイン語
  • ドミニカの通貨:1 ドミニカ・ペソ = 2.7 円(2015年現在)
  • ドミニカの物価:昼食・夕食で50~100ドミニカ・ペソ。安宿700~2000ドミニカ・ペソ
  • ドミニカの治安:十分注意してください。
  • ドミニカのフライト情報: 直通なし:アトランタとマイアミの2ヶ所経由だと最低19時間
  • ドミニカの水:水は飲まない方が良い。氷も注意。
  • ドミニカのチップの有無:マナー程度。気持ちでチップ。
  • ドミニカのビザ: 3ヶ月以内の観光ならビザは不要。パスポートの残存期間は入国時に6ヶ月以上。(アメリカ経由で中南米へ渡航する場合は事前にESTA の取得必要)。
  • ドミニカの電圧とコンセント:110/220VでA型

ドミニカのチケット情報

東京発ドミニカ共和国 サント・ドミンゴ行きの格安航空券 104,000円から

東京発ドミニカ共和国 プエルト プラタ行きの格安航空券 ¥138,000円から

大阪発ドミニカ共和国 サントドミンゴ行きの格安航空券 ¥130,600円から

大阪発ドミニカ共和国 プエルト プラタ行きの格安航空券 ¥138,000円から

ドミニカの治安

十分注意してください。

ドミニカの時差と現在時刻

  • タイムゾーンの名称:AST 大西洋時間
  • 協定世界時との時差:UTC-4
  • 日本時間との時差:JST-13

現在の日本とドミニカ共和国との時差は、13時間です。日本の方が、13時間進んでいます。

ドミニカの天気

ドミニカのおすすめ情報・観光・おみやげ